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日研の歴史 
黎明期
 「明治時代に河内鮒の養殖が始まり、大正期には関西においてへら鮒の釣り堀が開業され、関東へは大正7〜8年頃、群馬県館林の城沼に20貫の放流が行われた」と云われる。昭和3年、琵琶湖産のへら鮒を霞ヶ浦へ放流、同5年 東京蒲田の鹿島田養魚場で釣り堀経営に着手。
 昭和6年10月22日、蒲田釣楽園主 綿貫酉之助が4百貫のへら鮒を関西より購入。9年 移転して大田区に小池釣堀を開業。名人上手が輩出する。
 昭和4年、山梨県の水産技師沢田進、富士五湖に各4千尾を放流。かくしてへら鮒は水郷および山上湖に繁殖を始める。18年3月、土肥伸が関西から横利根川の内川へ移住。多くの釣人を同家へ迎え、関東におけるへら鮒釣りの発展に貢献する。22年7月5日、釣友同和会創立。日研の母体となる。

特記事項
昭和6年冬、釣楽園にて鈴木魚心20尾の初釣果。14年、小合溜にて渡辺利之助が団子釣りを行う。15年、小川魚遊、小池釣堀へ通い始める。16年4月10日、関沢潤一郎が横利根川西代西岸にて初釣果。米地南嶺、石神井の釣堀金木園の開園からの顧客となる。吸い込み釣りの名手小林隆夫も小池で技を磨く。
 戦後間もなく、土肥伸がへら鮒釣り普及のための指導者グループの会を作ることを発案。叶九隻が同意し、吉田進の骨折りで小林隆夫、安食梅吉、加納幸蔵も腰を上げるが実現せず。昭和23年、へら鮒専門の釣り会がぽつぽつ生まれ、へら鮒釣り人気が次第に高まる。24年、精進湖第1回フナ釣り大会が鈴木魚心の肝いりで開催される。参加者150名。
 
昭和25年
 6月16日、新橋の烏森神社において日本へら鮒釣研究会発会式。名称は米地南嶺発案、バッジ図案は渡辺利之助、会則は山田釣閑、会旗調達は伊勢丹の鬼沢録太郎(魚仙)。
 会長に後藤福次郎、副会長が宗村純、餌取章友。発会参集者は土肥伸、関沢潤一郎、小林隆夫、宗村純、米地南嶺、戸田粂雄、小林健二郎、餌取章友、山口幸司郎、渡辺利之助、平井魚葉、山田釣閑、増田逸魚、鬼沢録太郎、三村栄一、堀切、竹野紫泡、植木義夫、岡本、西谷権之助。釣友同和会ヘラ部が主体であった。
 発足時の支部は浅草、川口、東葛、二水会、船橋。会員数97名。

特記事項
 10月26日、千代田湖試釣に戸田粂雄、小林健二郎、宗村純、増田逸魚、渡辺利之助、鈴木魚心が参加。11月19日、全関東ヘラ鮒釣団体対抗競技大会開催。バナナにおいて古河チーム優勝、佐原町役場階上にて表彰式。12月10日、小池釣堀にて日研大会、参加200名。
 新橋発の水郷釣バスの運行が始まる。
  
昭和26年
 中央区木挽街2-13 吉田進方に連絡所を置く(会費30円)。10人制による支部対抗団体トーナメント始まる。競技規定の不備により、浅草および東横の2支部が優勝。優勝杯を月賦で購入。

特記事項
 5月13日、甲府の丸山貯水池(千代田湖)において日研主催の大会を開催。東京から31名が参加、地元の釣人も加わり賑わう。5月17日、三名川貯水池(三名湖)へ渡辺利之助試釣。
 釣行には上野発6時10分の列車が愛用される。東レの銀鱗アミランテグスが使われる。
 
 
昭和27年
 3月15日、日本へら鮒釣研究会会則を制定実施。本部事務所を荒川区三河町4-3101 山口幸司郎方に置く。青空一竿、池上、浦和、松戸の4支部が加わる。計17支部、会員数256名。
(註)創立以来の支部数を足しても17にならないのは…「日研三十年のあゆみ」が作られた昭和55年当時の存在支部を「加入支部としている」ため。小林健二郎は「20支部の入会を見る一方で13支部の退会という現象もあり」書き残しており、揺籃期の苦労が偲ばれる。団体トーナメント優勝は浅草支部。

特記事項
 横利根川拡張工事が始まり、内川、船大工、三左エ門、マノスケ、乱塔場の各江湖が埋め立てられ水郷は変貌。4月3日、増田逸魚、ボラ釣りが主体の佐屋川(名古屋)においてサツマイモを餌にへら鮒を尺上混じりで6キロの初釣り。釣り場として牛久沼、佐原向地、古河、安食、手賀が人気を集める。
 
昭和28年
 宗村純が二代目会長に就任。温厚な人柄で会員一同に厚く信頼される。しかし、釣界全体として見れば、日研自体が揺籃期の域を出ず、あらゆる点で新味工夫が必要であった。団体トーナメント優勝は森清支部。

特記事項
 11月3日、佐屋川において浪花釣友会、中部釣魚連盟と日研の対抗釣会が行われ勝利する。参加者は米地南嶺、宗村純、小林健二郎、土肥伸、叶九隻、青山文雄、渡辺利之助、本田亀六、市川、荒木(個人優勝)ほか計18名。関東と関西の釣り習慣の違いに双方驚く。
 
昭和29年
 望月正行が三代目会長に就任。副会長に米地南嶺、小林健二郎、竹野紫泡、顧問に土肥伸、叶九隻、鈴木魚心。支部会員は川口支部の31名が最大、森清支部の11名が最小で平均20名台。団体トーナメント優勝は浅草支部。

特記事項
 この年までグル川、バナナ、上の島新川、与助川、精進湖、手賀、六軒川、利根運河の水堰橋等において対抗戦が行われる。また、平山江湖、多田島江湖、横利根大曲観音前、長野県の松原湖が人気を集める。松原湖の地元にへら鮒会も創設される。
 
昭和30年
 米地南嶺が四代目会長に就任。創立7周年を祝い白バッジ制定。日本へら研競技規則を制定。支部対抗戦も7人制から5人制へ改め、1支部から2〜3チームの参加を可能とする。トーナメント優勝は東葛支部。

特記事項
 4月1日、利根運河水堰橋において銀座で全盛の山村聰の釣具店「ポイント」に集まるメンバーVS浅草へら鮒会の対抗戦が行われ、銀座は全員赤帽を、それなら浅草は対抗上「黄色」にしようと…釣り場に真新しい赤と黄色の帽子が並ぶ。此れが釣界の制帽の始まりとなった。 
 
昭和31年
 植木義夫が五代目会長に就任。精進湖にて魚心杯争奪個人釣大会を開催、参加90名。佐原の土肥杯、松原湖の叶杯と共に人気を集める。トーナメント優勝は浅草C組。
 
昭和32年
 個人大会の対象魚が「5寸以上」となる。11月10日、佐原向地にて創立10周年記念釣大会を開催。同月、大阪の芦原池にて浪花釣友回と懇親会を開催。この頃よりへら鞄が登場する。トーナメント優勝は城北A組。

特記事項
 佐原向地にて電気による密漁盛ん。12月には7歳の女子が巻き添えで事故死。関沢潤一郎と地元の人々により水郷釣場愛護促進会が発足、取り締まりに協力する。群馬県の丹生湖が釣れ出す。
 
昭和33年
 会長から理事長制へ変わる、初代理事長に米地南嶺が就任。機構改革の結果、企画、渉外、運営、研究、文書、経理、審判、道徳の各部誕生。支部対抗が5人から10人制となる。トーナメント優勝は青空一竿支部。

特記事項
 国鉄が佐原や精進へ「銀鱗号」を運行。新潟県の鳥屋野潟、高田城の濠、中頚城郡内の溜池にへら鮒が繁殖。人気を集める。地方にも釣会増加。
 
昭和34年
 4月5日、土肥伸逝去。4月12日、初の日研葬が行われる。7月7日、新緑個人釣大会を精進湖にて開催。土肥伸顧問碑をレイクハウス前に建立。トーナメント優勝は松戸支部。

特記事項
 東武鉄道主催・日研後援の釣大会を五十里湖にて開催。東京鉄道管理局主催・日研後援の釣大会を精進湖にて開催。
 
昭和35年
 小林健二郎、二代目理事長に就任。愛魚運動として「アゴ鈎糾弾」に加え、稚魚放流の声が高まる。トーナメント優勝は巽支部。

特記事項
 手賀沼養魚場にて孵化育成に成功。関東産の河内鮒が誕生する。羽田旭匠(孤舟)が大阪から上京。関東の釣り人と交流する。相模湖で尺2〜3寸が釣れる。へら餌としてマッシュポテトが定着し始める。
 
昭和36年
 手賀沼や牛久沼のへら鮒が高値で売買され問題となる。密漁対策、魚の持出制限、再放流の運動が盛んになる。6月、川崎さいか屋の「報知つり展」を後援。トーナメント優勝は池袋支部。

特記事項
 横利根川好調。舟宿と日研の間で出舟時間、水棹の長さ、釣り場清掃、舟の乗り捨て防止について話し合いを行い、各支部へ徹底する。銀座支部、浅草支部がメートル法を採用。
 
昭和37年
 堂前の品志川が日研と都釣連の共同専有釣場となる。4月8日、大阪から同川へ河内鮒を直送し大会を開催。4月13日、神田「もとみや」にて初の支部長会議を開催。山中湖平野ワンドが人気を集める。トーナメント優勝は浦和支部。

特記事項
 目黒支部に少年部が創設される。北海道大沼にて巨べらが釣れる。間瀬湖に初放流。
 
昭和38年
 創立15周年記念大会を開催。日研動員の大型バスが年間80台に達する。5月、埼玉県水産試験場で孵化生育された稚魚を、木村国夫養魚放流部長の下、幸手市高須賀沼脇の養魚池で育てる事業を開始。初の地方支部(新潟)が入会。トーナメント優勝は草加支部。

特記事項
 養魚放流部が設置される。叶九隻、総会にて密漁糾弾演説を行う。
 
昭和39年
 創立15周年記念式典を上野精養軒にて挙行。仙台、静岡に支部誕生。7月、美鈴湖にて松本へら研主催の大会が開催される。東北、上信越、北海道、東海の釣り場が注目を集め、普及目覚ましい。トーナメント優勝は墨田支部。

特記事項
 西湖、精進湖の入漁料について漁協と話し合いが行われる。
 
昭和40年
 10月、親子釣大会を試験的に開催。東北線、常磐線、城南の各ブロックが確立される。第5回となった報知つり展をはじめ、東武百貨店、丸物百貨店の釣り展を後援。トーナメント優勝は浅草支部。

特記事項
 ふまつげん本舗が「フマツゲン」を発売。津久井湖完成。
 
昭和41年
 山口幸司郎、三代目理事長に就任。山形県が伏熊沼にて、長野県が美鈴湖にて初の地方大会を開催。5月、日研の長老会である「寿会」発会。戸田粂雄が会長に就任。トーナメント優勝は銀座支部。

特記事項
 西湖の足和田村が台風26号による災禍に見舞われる。北浦で巨べらブーム起こる。地方部の大会決勝戦が横利根川で行われ、仙台支部優勝。雑誌「へら鮒」が創刊される。
 
昭和42年
 4月30日、精進湖畔にて「はねうきの碑」除幕式。5月15日、目黒支部が清水公園池にて子供釣大会を開催。へら鮒センター各地に誕生。トーナメント優勝は紫水会支部。

特記事項
 相模湖にて53.5cmが記録される。金子四郎製作の映画「へら鮒のすべて」完成。地方部(北越、北部、中部、東海ブロック)による第1回地方大会を開催。11月26日〜12月17日、大阪府淡水魚試験場より2歳魚を運び、西湖、精進湖、小合溜、新利根川、横利根川、円良田湖へ4.1トンを放流。現在に至るまで「放流事業」は日研の大きな柱である。
 
昭和43年
 植木義夫、四代目理事長に就任。4月28日、物故先輩の合同慰霊祭を行う。トーナメント優勝は浦波支部。

特記事項
 東海、北越、東北でも放流が進む。
 
昭和44年
 創立20周年記念釣大会を春秋の2回開催。精進湖の釣況の落ち込みが顕著となる。「己れの釣り場は己れの手で」と放流事業の重要性が更に高まる。トーナメント優勝は浦波支部。

特記事項
 美濃部東京都知事の「公営ギャンブル全廃声明」により、買い取り制だった釣り堀が質的転換を迫られる。
 
昭和45年
 小川魚遊、五代目理事長に就任。横利根川にて漁業権の設定問題が起こる。トーナメント優勝は亀有支部。

特記事項
 釣り堀の買い取り制度が全廃される。河口湖のへら鮒がキロドネラにより大量斃死。深川支部が成魚1トン、稚魚0.5トンを豊英湖に放流。
 
昭和46年
 8月6日、親子釣大会をちびっ子へら鮒釣大会と改め、日研推薦釣堀協和会と共催にて川越、水元、関東、桃源境、川崎、柏、土浦、吉川、米沢の各へら鮒センターにて開催。以後行事として定着する。日研ニュース発刊。月間機関誌となる。トーナメント優勝は銀座支部。

特記事項
 宮城県釜房ダムに日研が2トンを初放流。5月、利根川河口堰完成。水体系が変化する。
 
昭和47年
 全国へら鮒放流協議会発足、初代会長は小林健二郎。放流バッジ千円による協賛運動が始まる。トーナメント優勝は北斗支部。

特記事項
 「月刊へら」創刊。三島湖に5トン放流。
 
昭和48年
 精進湖の復活を目指し、アンカー禁止、動力舟釣り廃止、出舟時間設定、イケス周りの釣り禁止を現地と取り決める。また、舟代から2百円を次年度放流資金へ充当のこととする。三島湖も放流の甲斐あって空前の人気。一方でへら鮒に「穴あき病」蔓延。トーナメント優勝は紫水会支部。

特記事項
 三島湖に11トンの大量放流。津軽富士見湖への釣行始まる。
 
昭和49年
 小林健二郎六代目理事長として再登板。3月、西湖へ12トンの大量放流。小林理事長から美濃部都知事へ「奥多摩湖の舟釣り解禁」を請願するも…断られる。トーナメント優勝は東和支部。

特記事項
 東横水郷が川崎市営等々力緑地公園へ移管され、等々力FCとなる。
 
昭和50年
 11月9日、上野精養軒にて創立25周年記念式典挙行。全へら鮒放協を全日本へら鮒放流協議会に改称。トーナメント優勝は結城支部。

特記事項
 内の倉ダム、水沼ダムへ放流。
昭和51年
 全放協の第5期放流は30.16トン。5年間総計は127.91トンとなる。地方においても放流体制が整い、静岡へら連も西大谷ダム、七曲池、水窪ダムへ放流。トーナメント優勝は北斗支部。

特記事項
 草木ダムが完成し放流。カーボンロッドが脚光を浴びる。
 
昭和52年
 山中湖、西湖、精進湖快釣。連日、10キロ20キロのニュースが伝えられる。「釣り人課(仮称)を水産庁に」の署名運動始まる。トーナメント優勝は東和支部。

特記事項
 全放協、日研、自主放流合わせて65.11トン。
 
昭和53年
 佐藤紫舟、七代目理事長に就任。7月19日、豊英湖が営業開始。トーナメント優勝は浅草支部。

特記事項
 地方部が南部・北部の東北地方部、北越(新潟、北陸)、中部(中部東海、中京)、特別(九州、特別)の構成となる。
 
昭和54年
 7月22日、野田奈川にてクリーン作戦を実施。トーナメント優勝は亀有支部。

特記事項
 日研、全放協、自主放流の総計107.27トン。遂に100トンの大台に乗る。
 
昭和55年
 11月16日、創立30周年記念式典を帝国ホテルにて挙行。記念誌「三十年のあゆみ」を発行。トーナメント優勝は青空一竿支部。

特記事項
 寿会会員150名に達する。
 
 続く
日研の人々 
土肥 伸(明治29年〜昭和34年)

 関東のへら鮒釣りの基となった偉人。大阪において非鉄金属を扱う「太平商会」を経営した後、昭和18年3月、会社を処分して得た財を手に横利根の川脇(現在の第二大曲上流の東岸)へ移住。戦後、自宅はへら鮒釣りの道場となり、倉庫江湖、船大工江湖、大堀江湖、乱塔場江湖そして内川を舞台に多くの弟子を育てる。土肥伸を囲む輪から釣友同和会ヘラブナ研究部そして日研が誕生した。
 渡し舟で横利根を渡って釣客が訪れると…「仕掛けを見せなさい」と求め、仕掛けを通じて技量を見定め、腕に応じたポイントへ案内する。増田逸魚の「へら鮒三国志」によれば「宿泊料は1泊3食で350円」であった。

 戦後の大インフレおよび川脇の河川改修や新田開発(釣り場の消滅)を受けて、昭和27年、保養所「汐見荘」の管理人として富津へ移住。同所で火災に遭い、昭和28年、手賀沼漁業組合が経営する釣堀の管理人として手賀沼畔へ移住。辛い晩年であったが、その気骨と前向きに生きる姿は最後まで変わることがなかった。昭和25年〜33年 日研顧問。
 
鈴木魚心(明治41年〜平成元年)

 本名は鈴木寅五郎。青山に生まれ、商社員としてパラオで勤務した後、退職して昭和11年、京橋区の西八丁堀に珈琲専門店「パラオ」を開業。昭和19年、精進湖(現在のふじみ荘前の駐車場付近)へ移住。「ヤマメの鈴木か、鈴木のヤマメか」と謳わる程、鮎釣り・渓流釣りの名手でもあった氏は「魚心毛バリ」を巻き、釣ったへら鮒を精進湖畔の旅館に売って生計を立てつつ、精進湖のポイントを開拓し、山上湖の釣りを世に広める。
 
 昭和20年代から深い交流を持った平井魚葉によれば、鈴木家の食卓には「酢味噌で食べるへらの洗い」「へらの身とジャガイモを材料にしてヘラッケ」「へらのすり身の揚げボールや吸い物」が上っていた。昭和25年〜平成元年 日研顧問。
渡辺利之助(大正5年〜没年は調査中)

 鈴木魚心をして「上手いのはナベさん」と言わしめた、文武両道に秀でた天才。孤舟の教えを受けて関東随一のへら竿「蟹歩」を製作する傍ら…俳句、絵画、書道、随筆、クラシックギター演奏などに才能を発揮する。東葛支部を育て、出版部長など日研の要職を務め、日研の機関誌に多彩な文章を寄稿していた。その句に

 鶯や湖心に舟の櫂止めて
 耳なりと草のいきれと浮子一点
 時雨して片側濡らす釣鞄
 細々と水影の樹々冬釣は

 へら鮒を腹合わせにした日研会章、もじる波紋をあしらった放流バッジ、そして精進湖畔に立つ「はねうき之碑」。全てが渡辺利之助のデザインになる。昭和47年〜48年 日研相談役、昭和49年〜平成13年 日研顧問。
 
関沢潤一郎(明治39年〜平成3年)

 本名は北城潤一郎。佐原向地および利根本流の釣りを広く深く紹介し「佐原の関沢か、関沢の佐原か」と呼ばれる。肩書の多さは驚くべきで…佐原市民生委員、市史編集委員、佐原市観光協会常任理事、日本音楽著作家組合員、日本詩人連盟員、日本歌謡芸術協会理事、佐原羽根浮子クラブ会長、日本へら鮒釣研究会特別会員、銀座へら鮒会顧問、千葉県釣連顧問、千葉県内水面委員、東京中日新聞釣りペンクラブ同人、朝日新聞フナ釣り教室講師、水郷メリーハウス常務取締役、シスター洋裁店社長、詩人。日研の機関誌にも折に触れて詩を寄稿していた。
米地南嶺(明治42年〜平成5年)

 謎の多い人。晩年にデイリースポーツ釣り欄のデスク、へら専科の発行人を勤めるが、日研創立時は「あたしは毎日サンデーです。何時でも釣りが出来ます」と語り…何の仕事をしているのか不明であった。国鉄成田線の大戸駅(佐原駅の1つ手前)の北、新八間川の手前にあった平山の江湖の畔の釣りの家に「米地南嶺道場」の看板が掛かっていたが、住んでいるわけではなく、たまに来ては釣りを教えたり案内したりしていた。

 増田逸魚はへら鮒三国志に「映画にジャズに話題が広く、毒舌家ではあってもユーモアの持ち主であった」「昭和20年代半ば、京成電車での釣行の際、ジーンズにスニーカー姿で現れた」と記している。日研創立時には、半べら論争で仲違いしていた小林隆夫と土肥伸に仲直りの握手をさせ、会名について東日本○○、関東○○、東都○○など幾つか案が出る中…「どうせなら日本へら研にしよう」と提唱する。銀座支部を育てた人でもあった。

 昭和30年 三代目日研会長(会長制度は昭和25年〜昭和32年)、昭和33年〜34年 初代日研理事長、昭和44年〜平成5年 日研顧問。
 
小林隆夫(明治24年〜昭和39年)

 本名は三上隆夫。土肥伸に先立ち、戦前から水郷を開拓した、吸い込み釣り+長短2本の竿を操るマブナ釣りの名手。住居のある蒲田から自転車を漕いでは1年のうち10カ月を水郷で暮らし、増田逸魚をして「水郷の王者」と言わしめる。グル川で土肥伸と並んだ時も…土肥伸のウドン餌に対し、吸い込みでへら鮒を釣ってしまった。遂にはへら竿2本を使った「へら鮒釣り二刀流」を編み出す。昭和23年に平山の江湖で偶然出遭った平井魚葉によれば「アゴヒゲを長く伸ばし、眼光鋭く、風貌は一見仙人のようであった」由。

 昭和25年、中林淳眞が水之趣味に寄稿した記事を元に半べら論争が起こった時、「へらは純血を守っている」と主張する土肥伸に対し、マブナの大家として「半べらはいる」と中林淳眞に加勢した。 

 日研創世時の顧問。しかし在任期間が記されていない。正に仙人と云えよう。
  
加納幸蔵(生年は調査中〜昭和37年)

 叶九隻の従兄。昭和19年という時代にあって「鮒の釣場」を春陽堂から著し、へら鮒・真鮒の釣り場を紹介。当時の釣り人のバイブルとなる。同書には北千住駅付近の綾瀬川、金町駅付近の大場川、小合溜に始まり、柏駅、我孫子駅、取手駅、湖北駅、布佐駅、安食駅、龍ケ崎駅、越谷駅など駅ごとに付近の釣り場が記され…「当時の移動手段が汽車+徒歩であった」「佐原向地は範囲の外だった」ことが分かる。

 小林隆夫と並ぶ日研創世時の顧問。そして、小林隆夫と同じく在任期間が記されていない。
 
写真を探しています 安食梅吉(生年は調査中〜昭和39年)

 淡水ではマブナとタナゴ、海ではハゼやキス。小物釣りの第一人者。殊にタナゴ釣りの「名人」と讃えられる。日研創世記の昭和25〜27年に顧問を務めるが、へら鮒釣りとは合わなかったのであろうか…やがて日研を去る。
 
 
 
叶 九隻(明治29年〜昭和52年)

 本名は叶定吉。千葉県の宮大工の家に生まれ、小川でフナを釣り、成人の後はコイの釣り堀に通ってイモネリを習得する。小学校時代から文才に優れ、俳句、漢詩、和歌、独々逸、端唄、琵琶唄、更には小説まで活躍する。鶴を思わせる痩身は優しさに満ち、性格は穏やか、誰も氏の怒る姿を見たことがなかった。練れた人柄は会の内外を問わず、多くの人に慕われる理想の指導者であった。その句に

 へら鮒の泡つけ初めし花藻かな
 灯に寄せて釣りの支度やちちろ鳴く
 寒鮒や古く馴染める杭二本
 家毎に生簀の鮒や春の川
 正月の東京に遠く釣りにけり

 昭和21年、関東最初のへら鮒会である浅草へら鮒会を創始。日研創世の昭和25年から逝去するまで日研顧問を務めた他、関東へら研、銀座へら鮒会、上野へら鮒釣同好会、墨田へら鮒会、墨田天狗へら鮒会、葛西へら鮒会の顧問、そして台東区釣魚連盟相談役、釣り人横綱会参与でもあった。また、長野県の松原湖の開拓に力を注ぎ、同湖で「叶九隻杯」争奪戦も行われた。

 昭和53年に浅草へら鮒会の手で建立された銅像が新利根屋横で川を見つめる。浅草国際劇場(現在の浅草ビューホテル)近くで経営していたキンヘイ薬局は今も盛業中である。
 
写真を探しています 後藤福次郎(生没年は調査中)

 土肥伸に師事し、昭和24年には文化建設社から共著で「ヘラ鮒釣」を発行。その広告に土肥伸が「後藤氏は実に熱心なヘラ鮒釣りの研究家で、その釣況には、見ていてハッとするような鋭さがある」と序文を寄せている。

 日研創立時、土肥伸の推薦により初代会長の座に就く。仕事が紙会社のオーナー社長で…統制が厳しかった当時、氏を会長に据えれば「日研会報に必要な紙が手に入る」との思惑もあった。そして昭和25年、参議院選挙に全国区から出馬し落選。昭和27年まで会長職を務めた後、暫く顧問として残ったが、やがて日研を離れる。
山田釣閑(生没年は調査中)

 増田逸魚と中学(東京府立第一商業)の同級生。日立建機の経理課長を務め、日研創立時には会則作成および経理部門で活躍する。
 
写真を探しています 鬼沢録太郎(生没年は調査中)

 電話交換室の主任として新宿伊勢丹に勤務。その縁から、日研創立時、日研会旗の調達に活躍する。
 
宗村 純(生没年は調査中)

 釣友同和会の中核的存在にして土肥伸とも親しく、加えて会員からの人望が篤く…日研創立に大いに貢献する。仕事は石油化学のプラント会社である三菱化工機の役員。日研創立時の副会長、昭和28年 二代目日研会長。
 
 
写真を探しています 餌取章友(生没年は調査中)

 大森にて歯科医を業とする。へら鮒釣りのエサの研究に熱心で、餌取=ペンネームと思われているが…実は本名。日研創立時の副会長。
 
戸田粂雄(生没年は調査中)

 川崎にて工業窯炉・焼却炉など耐熱工事一般の戸田工業を経営する一方、4枚合わせの太いボディにソリッドのトップをつけたへら浮子「まこも」の作者でもあった。

 増田逸魚が著した「浅草へら鮒会 四十五年の歩み」に「元は職人の実力派、行動派。軍隊生活も長く、中支を転戦する。体力抜群だが小回りも利き、短竿に極細トップの繊細な釣り。農家に手土産持参で顔つなぎして小舟を確保、更に年間例会連続出場記録も持っていた。そして、午前中釣れないとさっさと汽車に乗って帰ってしまう。女性達からとても慕われ、忙しかったのである」と記されている。

 昭和41年 日研寿会会長、昭和49年〜56年 日研顧問。川崎支部を育てた人でもある。
 
小林健二郎(大正11年〜昭和58年)

 本業は川口市にて鋳物業を営みドレネジやモミガラ釜戸を製造販売する國際重工業の役員。へら鮒世界での活躍も著しく…日研創立の頃から「再放流および放流事業の重要性」を自覚、昭和28年2月には金木養魚場で買った50キロのへら鮒を米地南嶺や山口幸司郎と共に奥多摩湖へ放流する。更に昭和38年、日研自ら養魚育成を行うべく「養魚放流部(部長は浦和支部の木村国夫)」を新設する。へら鮒釣りの隆盛に貢献した偉人と云えよう。広報子の師匠である加瀬一夫も常々「偉かったのは小林健二郎」と語っていた。

 川口支部を育てる一方、昭和35年〜40年 二代目日研理事長、昭和47年〜52年 再登板して六代目日研理事長、昭和53年〜58年 日研顧問。
 
山口幸司郎(大正10年〜平成16年)

 本業は三河島の砥石屋さん。昭和18年からへら鮒釣りを始め、昭和23年から本格的に取り組んだ最古参の一人。創設時の日研において会計を担当し、本部事務所を預かり、運営に力を尽くし、精進湖畔の「はねうきの碑」建立にあたっては行政当局との交渉に奔走する。荒川支部を育てた人でもあった。

 昭和41年〜42年 三代目日研理事長。昭和45年〜平成16年 日研顧問。
 
増田逸魚(大正5年〜平成7年)

 銀座4丁目に生まれる。様々な釣りを経て、昭和24年頃からへら鮒釣り一筋…春秋は横利根の土肥伸に、夏は精進湖の鈴木魚心に師事する。銀座へら鮒会の創立役員、そして昭和31年から5年間、同会会員の山村聰が経営した釣具店「ポイント」の番頭を務める。最大の功績は「へら鮒三国志」を著したこと。此の名著なかりせば、へら鮒釣りおよび日研創世記の様子が今に伝わることはなかった。

 日研に貢献しながら、理事長、顧問、相談役の何れにも就いていない。平井魚葉によれば「誰彼の区別なく輪の中に入り、自分の体験談を交えながら世間話もする気さくな人であった」「俺は魚を集めるのはあまり得意じゃないが、俺の処にはエサを打たなくても自然に人が集まってくると語っていた」由。絵の才にも恵まれ、今も様々な舟宿で氏が描いたへら鮒の色紙に会うことができる。
 
竹野紫泡(生没年は調査中)

 昭和25年、元旦から七日まで、六本松の平山に泊り込み、前の江湖で連日の貫目釣り。釣り堀より釣れるため、帰るに帰れない。ようやく同行者に電報が来て水辺を後にする。一場所・二エサ・三に腕の時代に、エサの重要性を認め、気に入ったサツマイモが出来るまで奥様は八百屋さんへ通わされた。昭和25年6月、新橋烏森神社で行われた日研発会に参集した一人でもあった。

名人として知られ、「紫」の一字を佐藤紫舟は頂戴する。
 
植木義夫(生没年は調査中)

 昭和25年6月、新橋烏森神社で行われた日研発会に参集した一人。草加支部を育て、昭和31年〜32年 五代目日研会長、昭和43年〜44年 四代目日研理事長、昭和49年〜平成17年 日研顧問。
続く 
 
「日研創立三十週年記念 三十年のあゆみ」「日研創立40周年記念 40周年の軌跡」「増田逸魚著 へら鮒三国志」「浅草へら鮒会 四十五年の歩み」「へら鮒掲載 へら鮒今昔物語 平井魚葉(日研特別会員、日研創立時参集メンバーの唯一の生存者)」などを基に日研の歴史と人々について綴っています。資料や写真を提供くださった皆さまに心より感謝申し上げます。なお、記述には正確を期していますが…誤り等ありましたら、遠慮なく広報部・吉本までお知らせください。