NPO法人 
 
団体トーナメント優勝支部一覧
 
日研機関誌「はねうき」および日研ニュースを元に作成しました。
「そこは違う」がありましたら…広報部・吉本までお知らせください。
 
昭和
25年 古河
26年 東横/浅草
27年 浅草
28年 森清
29年 浅草
30年 東葛
31年 浅草C組
32年 城北A組
33年 青空一竿
34年 松戸
35年 巽
36年 池袋
37年 浦和
38年 草加
39年 墨田
40年 浅草
41年 銀座(中央)仙台(地区)
   以下同じ
42年 紫水会 静岡
43年 浦波 仙台
44年 浦波 福島
45年 亀有 長岡
46年 銀座 駿府
47年 北斗 山梨
48年 紫水会 松本
49年 東和 青森
50年 結城 新潟
51年 北斗 青葉
52年 東和 福井北ノ庄
53年 浅草 福井北ノ庄
54年 亀有 三条
55年 青空一竿 宮城仙北
56年 川口 ナゴヤ葵
57年 鴻巣 仙台みちのく
58年 鴻巣 福島
59年 埼玉竿水 大崎
60年 板橋 南陽
61年 佐原 博多
62年 小山 いわき
63年 鹿島三役会 いわき

平成
元年 北斗 いわき
2年 若竹 山形銀友
3年 あかね いわき
4年 若竹 いわき
5年 竜ケ崎 博多
6年 佐原 名古屋絆
7年 あかね 静岡静水会
8年 鴻巣 甲斐
9年 北斗 博多
10年 あずま 秋田三輪
11年 八王子 上越
12年 あずま 新潟
13年 北斗 長野中央
14年 目黒 静岡静水会
15年 北斗 新発田
16年 川口 甲斐
17年 浜町金座 金沢
18年 取手 静岡静水会
19年 北斗 山形
20年 目黒 福井
21年 取手 水無月会
22年 川越 水無月会
23年 巽 博多
24年 巽 いわき
25年 鴻巣 いわき
26年 巽 甲斐
27年 取手 いわき
28年 八街 秋田大曲
29年 静岡静水会
   (中央・地区を統一)
30年 静岡静水会

令和
元年 蕨
2年 コロナ禍のため中止
3年 コロナ禍のため中止
4年 佐原
5年 巽
6年 取手

AOY競技 優勝者一覧
 
AOY中央の部 AOY地区の部 AOY団体の部
平成16年 橋本幸一(巽)
平成17年 出村誉信(利根) 浜町金座
平成18年 山口伸一(目黒) 目黒
平成19年 斎藤勝市(静東) 池上
平成20年 橋本孝彦(浦和) 取手
平成21年 田上 弘(取手) 取手
平成22年 新井森男(取手) 金山章彦(岡山) 取手
平成23年 東日本大震災のため中止 東日本大震災のため中止 東日本大震災のため中止
平成24年 浜田 優(個人) 藤田恒雄(いわき) 八街
平成25年 岡崎一誠(青空一竿) 金山章彦(岡山) 青空一竿
平成26年 山口伸一(個人) 秋元秀幸(青森東)
浅沼英夫(山形飛びぬけ)
萩野右始(松本美鈴) 
藤田恒雄(いわき)
取手
平成27年 浜田 優(個人) 小野昌弘(いわき) 八街
平成28年 高原良貴(富士) 小原泰則(宮城阿武隈) 静岡静水会 巽
平成29年 青野 浩(静岡静水会) 青野 浩(静岡静水会)
綿貫千晃(長野中央)
あずま
平成30年 赤堀 健(静岡静水会) 小原泰則(宮城阿武隈)
源中丈晴(名古屋絆)
赤坂
令和元年 高柳光雄(八街) 藤田恒雄(いわき) 八街
令和2年 コロナ禍のため中止 コロナ禍のため中止 コロナ禍のため中止
令和3年 コロナ禍のため中止 コロナ禍のため中止 コロナ禍のため中止
令和4年 原田雄一(静岡静水会) コロナ禍のため中止 彩倶楽部
令和5年 種市俊昭(池上) 後藤魚真(筑後川) 赤坂
令和6年 赤堀 健(静岡静水会) 後藤魚真(筑後川) あずま
スポーツ庁長官杯/個人ベストテン/農林水産大臣杯 優勝者一覧
 
スポーツ庁長官杯 個人ベストテン 農林水産大臣杯
平成16年 山本 満(静東)
平成17年 直井行博(調布) 増田春水(小見川)
平成18年 東  明(池上) 菅沢博雄(佐原)
平成19年 石井昇一(巽) 浜田 優(個人)
平成20年 浜田 優(個人) 西田清高(浜町金座)
平成21年 伊藤啓介(八王子) 加藤晶裕(関東へら研)
平成22年 青野 浩(静岡静水会) 青野 浩(静岡静水会)
平成23年 茂木昇一(個人) 内島康之(個人)
平成24年 萩野孝之(個人) 岡崎一誠(青空一竿)
平成25年 橋本孝彦(浦和) 小川明浩(浦和)
平成26年 橋本孝彦(浦和) 石川和人(あかね)
平成27年 古澤修美(個人) 柳町盛男(あずま)
平成28年 岡崎一誠(青空一竿) 石川和人(あかね)
平成29年 大木敦史(二水会) 阿川眞治(巽)
平成30年 都祭義晃(個人) 大木敦史(二水会) 野口喜律(個人)
令和元年 浜田 優(個人) 石渕敏彦(巽) 長島 清(紫水会)
令和2年 コロナ禍のため中止 コロナ禍のため中止 野村吉男(佐原)
令和3年 コロナ禍のため中止 コロナ禍のため中止 北條俊介(富士)
令和4年 加藤洋一(浦和) 平澤二朗(二水会) 大関文夫(千葉)
令和5年 種市俊昭(池上) 平澤二朗(二水会) 嶋田秀勝(佐原)
令和6年 伊藤さとし(個人) 佐々木大樹(一般) 原田雄一(静岡静水会)
令和6年度AOY競技 結果
 
中央の部は11月23日の農水杯、地区の部は11月10日の宮城地区支部長懇親釣会をもって
令和6年度のAOY競技は終了。それぞれAOYが決定しました。

「私は此の大会で点数を取っているはず」「順位と点数が誤っている」「参加していないのに載っている」
「氏名の表記が間違っている」などありましたら、広報部・吉本まで至急ご連絡ください。

全国を舞台にした、日研ならではのAOY競技。
皆さま、来年もご活躍ください!
 
中央の部
 赤堀 健、石崎 肇、佐竹喜仁の3名が上下5点差で最終戦の農水杯に臨む。
 結果、赤堀健(静岡静水会)が4位となり22点を獲得。
 平成30年に続く2度目のAOYに輝きました。

 なお、平成16年の競技開始以来、AOYを2度獲得した人は3名。
 山口伸一(目黒→個人)、浜田 優(個人)そして赤堀 健です。
 



令和6年度 中央の部AOY 赤堀 健(静岡静水会)

氏名 所属 春舟 春陸 法要 支部長 スポーツ 秋舟 秋陸 個人ベスト トーナメント 農水杯 合計
順位 得点 順位 得点 順位 得点 順位 得点 順位 得点 順位 得点 順位 得点 順位 得点 順位 得点 順位 得点
1 赤堀 健 静岡静水会 4 22 1 25 7 19 4 22 88
2 石崎 肇 浮藻 9 17 5 21 2 19 4 7 64
3 佐竹喜仁 彩倶楽部 8 8 4 22 2 24 6 7 61
4 野村吉男 佐原 4 22 3 8 6 20 50
5 青柳隆博 小見川 1 25 2 24 49
5 櫻井直樹 赤坂 7 19 5 7 3 23 49
7 田上 弘 取手 7 19 1 10 7 19 48
7 鳥羽俊文 あずま 1 25 3 23 48
9 山来霞水 あずま 1 25 8 18 43
9 須永博明 浦和 6 20 3 23 43
10 大関文夫 千葉 3 23 6 20 43
12 清水良之助 八街 5 21 6 20 41
13 渡辺邦弘 利根 7 19 8 18 37
13 斉藤宏一 彩倶楽部 1 25 6 7 32
15 大久保隆司 青空一竿 5 21 6 10 31
16 田中 誠 成増 11 15 1 15 30
17 佐藤紀征 浮藻 5 21 4 7 28
18 原田雄一 静岡静水会 1 25 25
18 伊藤さとし 個人 1 25 25
20 種市俊昭 池上 2 24 24
20 毛利勇男 個人 2 24 24
20 石井徹志 佐原 2 24 24
20 吉武 稔 八王子 2 24 24
20 椎名臣瑞 水戸 2 24 24
25 西宮 清 赤坂 10 16 5 7 23
25 柳町盛男 あずま 3 23 23
25 戸張 誠 個人 3 23 23
25 野村 崇 個人 3 23 23
29 西田一知 個人 4 22 22
29 根本順一 あずま 4 22 22
29 大木敦史 彩倶楽部 1 15 6 7 22
29 藤野一利 川越 4 22 22
29 高原良貴 富士 4 22 22
34 鈴木正太郎 青空一竿 5 21 21
34 矢澤 宰 上越 5 21 21
36 浅場紀人 静岡静水会 6 20 20
36 黒川 誠 みずほC 6 20 20
36 永井 均 両毛 6 20 20
39 橋本輝舟 群馬太田 7 19 19
39 渡辺健寿 福島保原 7 19 19
41 岩本正一 青空一竿 8 18 18
41 栗山峰志 あずま 8 18 18
41 高城 伸 個人 8 18 18
41 高柳光雄 個人 8 18 18
41 飯野道雄 みずほC 8 18 18
46 藤田恒雄 いわき 4 17 17
47 佐賀真一 個人 6 15 15
48 石毛孝一 あずま 2 14 14
48 平澤二朗 二水会 7 14 14
48 石川裕治 八王子 12 14 14
48 冨山春男 水戸 2 14 14
52 遠藤克己 赤坂 3 13 13
52 関和秀行 群馬邑楽 3 13 13
52 増田浩司 静東 8 13 13
55 牛山成二 浦和 4 12 12
55 鈴木義弘 草松 4 12 12
57 渡辺直行 亀有 5 11 11
57 浜田 優 個人 10 11 11
59 新井森男 取手 1 10 10
59 池田隆司 取手 1 10 10
59 菊地英光 取手 1 10 10
62 山本 豊 小見川 7 9 9
62 阿川眞治 2 9 9
62 井口明人 2 9 9
62 伊藤宏二 2 9 9
62 黒田幸良 2 9 9
67 小川明仁 佐原 3 8 8
68 嶋田秀勝 佐原 3 8 8
68 八木英一 佐原 3 8 8
70 奥山康尋 赤坂 5 7 7
70 滝沢真介 赤坂 5 7 7
70 貫井孝司 彩倶楽部 6 7 7
70 霜田 薫 浮藻 4 7 7
70 舩木克彦 浮藻 4 7 7
地区の部
後藤魚真(筑後川)の連覇が決まりました。
地区大会、支部長懇親、ベストスリー戦の全てが1位
そして団体トーナメント決勝も地区1位(全体でも2位)!
1を4つ連ねてのAOY、お見事でした。




令和6年度 地区の部AOY 後藤魚真(筑後川)
農水杯にも九州から参加。
残念ながら、1を5つ連ねることは出来ませんでしたが

競技終了後、AOYを讃える太陽を受けて…まぶしい。

氏名 所属 地区懇親 地区大会 支部長懇親 ベストスリー 団体
トーナメント
合計
順位 得点 順位 得点 順位 得点 順位 得点 順位 得点
1 後藤魚真 筑後川 1 15 1 5 1 15 1 7 42
2 工藤勇雄 山形飛びぬけ 4 4 1 15 2 4 2 12 35
3 保坂紀夫 甲斐 2 14 2 4 1 15 33
4 成澤  進 長野中央 1 15 1 5 2 12 32
5 藤田恒雄 いわき 3 5 2 14 1 5 2 6 30
6 勝山  正 新津3H 1 15 3 10 4 4 29
6 荒川純一 北上展勝 2 14 1 15 29
8 松本修一 高岡 3 13 1 15 28
9 太田雅晃 青森 4 12 1 15 27
10 山本  薫 上越 1 15 1 5 3 5 25
11 宮川浩一 三沢 2 14 3 10 24
12 河野和義 筑後川 2 4 2 12 1 7 23
12 三枝  豊 松本美鈴 8 3 1 5 1 15 23
14 浪岡岩男 三沢木崎野 1 5 2 12 5 4 21
15 岩田重福 名古屋簓 1 5 1 15 20
15 松浦勝信 福島一竿 1 15 1 5 20
15 浅沼英夫 山形飛びぬけ 1 5 1 15 20
18 柳谷秀雄 青森 1 15 2 4 19
18 杉山孝次 静岡静水会 2 14 1 5 19
18 赤堀  健 静岡静水会 1 15 2 4 19
18 坂場貢一 新発田 2 4 1 15 19
22 銀山直樹 新発田 2 14 2 4 18
22 太田隆一 仙台まこも 3 13 1 5 18
22 中川憲二 富士五湖 1 15 8 3 18
22 及川弘也 宮城とよま 2 14 6 4 18
26 戎末光幸 岡山 1 5 2 12 17
26 松成  満 福井 4 12 1 5 17
26 毛利次雄 松本葵 2 14 7 3 17
29 清水智樹 新津3H 2 12 4 4 16
30 猪岡晃司 秋田北水 1 15 15
30 鳥前  豪 秋田みずも 1 5 3 10 15
30 佐々木満 秋田雄湯郷 1 15 15
30 根本芳春 いわき 1 15 15
30 木津大輔 岡山 1 15 15
30 金谷省吾 岡山 1 15 15
30 伊藤勝男 北上展勝 1 15 15
30 鈴木政昭 小松 1 15 15
30 穴吹直己 四国さぬき 1 5 3 10 15
30 山本  満 静東 1 15 15
30 高杉富士夫 新べらクラブ 1 15 15
30 鈴木邦夫 仙台広瀬 1 15 15
30 大森清規 仙台まこも 1 15 15
30 源中丈晴 名古屋絆 1 15 15
30 田谷  茂 福井北ノ庄 1 5 3 10 15
45 小松  進 秋田大曲 2 14 14
45 千田裕一 岡山 2 14 14
45 渡部庄一 個人 2 14 14
45 松本岩生 佐賀さかえ 2 4 3 10 14
45 福田幹夫 新べらクラブ 2 14 14
45 中本征勝 高岡 2 14 14
45 小野澤誠 長岡 2 14 14
45 国房隆志 博多 2 14 14
45 渡辺久良 三河 2 14 14
54 越前芳孝 秋田横手 3 13 13
54 安東則夫 九州直方 3 13 13
54 細田直希 甲府 3 13 13
54 青木孝一 静岡静水会 3 13 13
54 立澤信也 名古屋簓 3 13 13
54 中野貴行 新潟大野 3 13 13
54 脇屋正博 福島保原 3 13 13
54 桜井政彦 松本葵 3 13 13
54 小比類巻隆夫 三沢木崎野 3 13 13
54 佐々木正宏 水沢中央 3 13 13
64 金弥五郎 秋田千秋 2 12 12
64 松井久志 秋田千秋 4 12 12
64 渡邊智久 いわき 2 12 12
64 神田晴人 甲斐 2 12 12
64 金田  守 北上展勝 2 12 12
64 増田浩司 静東 2 12 12
64 藤田義博 白河 4 12 12
64 大町長夫 仙台まこも 2 12 12
64 加藤克佳 名古屋簓 2 12 12
64 茂  英和 福井明釣会 2 12 12
64 高橋遊水 宮城岩沼 4 12 12
75 菊池  康 秋田中央 5 11 11
75 酒井清明 小松 5 11 11
75 鈴木広利 仙台まこも 5 11 11
78 和泉富雄 秋田湯沢 6 10 10
78 佐藤淳一 いわき 2 6 2 4 10
78 松井次郎 甲斐 3 10 10
78 丸山  直 個人 3 10 10
78 海野伸治 静岡静水会 3 10 10
78 新井田義秋 仙台まこも 3 10 10
78 綿貫千晃 長野中央 3 10 10
78 永口正宏 名古屋絆 3 10 10
78 柄沢郁男 福島一竿 3 10 10
78 岩淵  武 水沢中央 3 10 10
88 増田翔太 野守 1 5 9 3 8
88 羽田公治 富士五湖 1 5 8 3 8
88 手代森昭彦 三沢木崎野 5 4 5 4 8
88 松岡文彦 宮城とよま 2 4 6 4 8
92 三浦圭輔 静東 1 7 7
92 三島和正 筑後川 1 7 7
92 嶋添智範 筑後川 1 7 7
95 成田雄光 秋田山本 2 4 10 2 6
95 永山 栄 いわき 2 6 6
95 伊藤 誠 いわき 2 6 6
95 松平昌樹 いわき 2 6 6
99 田中顕逸 青森 1 5 5
99 牧野陽充 秋田中央 1 5 5
99 菅原安雄 岩手水沢 1 5 5
99 石川博巳 岩手盛岡 1 5 5
99 宮田 猛 甲斐 1 5 5
99 近藤影水 三条 1 5 5
99 横山利雄 上越 3 5 5
99 矢澤 宰 上越 3 5 5
99 小山一郎 上越 3 5 5
99 中島 薫 博多 1 5 5
99 飯田年彦 三河 1 5 5
99 清水資郎 宮城阿武隈 1 5 5
99 後藤正利 山形飛びぬけ 1 5 5
112 高野  哲 秋田大曲 2 4 4
112 及川正喜 岩手水沢 2 4 4
112 畠 政春 岡山 2 4 4
112 高田  悟 白河 2 4 4
112 川瀬可光 大聖寺 2 4 4
112 島影 正 新津3H 4 4 4
112 中沢栄一 新津3H 4 4 4
112 西村清春 福井 2 4 4
112 長澤竜治 福島一竿 6 4 4
112 菊池毅一郎 松本葵 2 4 4
112 渡辺 X 松本葵 2 4 4
112 佐々木大二 三沢 2 4 4
112 桜田 勲 三沢木崎野 5 4 4
112 坂本貴将 三沢木崎野 5 4 4
112 鈴木 昇 宮城とよま 6 4 4
112 名生勝男 宮城とよま 6 4 4
128 佐藤明弘 秋田鷹巣 3 3 3
128 大沢  良 秋田三輪 3 3 3
128 石合定則 甲斐 7 3 3
128 矢内崇志 郡山中央 3 3 3
128 増田岳留 野守 9 3 3
128 増田暁憲 野守 9 3 3
128 宇野浩一郎 野守 9 3 3
128 斎藤志津夫 福島一竿 9 3 3
128 渡辺 仁 富士五湖 8 3 3
128 後藤正人 富士五湖 8 3 3
128 田原勝二 松本葵 7 3 3
128 滝沢広重 松本葵 7 3 3
128 中條喜夫 松本葵 7 3 3
129 岩村  透 秋田静心 4 2 2
129 佐藤徳雄 秋田静心 4 2 2
129 嶋田信久 秋田山本 10 2 2
129 池内俊介 秋田山本 10 2 2
129 本庄一広 秋田山本 10 2 2
129 藤森正光 松本葵 11 2 2
129 佐藤峰男 水沢中央 10 2 2
 
団体の部

万遍なく上位入賞を果たしたあずま支部が団体の部AOYに輝きました。


支部名 点数
1 あずま 168
2 静岡静水会 133
3 彩倶楽部 122
4 浮藻 106
5 赤坂 99
6 佐原 98
7 取手 78
8 青空一竿 70
9 小見川 58
10 浦和 55
令和6年度 放流予定(11月26日現在)
 
 日研と全放協が一体化されての初めての放流。
 これからも日研は釣り場を護り、へら鮒釣り文化を将来に伝えるべく尽力いたします。
 釣り人の皆さまにおかれても、へら鮒を大切に扱ってくださるよう宜しくお願い申し上げます。

 なお、管理池や釣り堀への放流は「釣り場からの委託」によるものです。
 放流バッジの分が充てられているわけではありません。

                                    放流事業本部
 
放流月日 放流場所 計 s
10/12〜13(土・日) 北海道地区 1,099
10/14(月) 間瀬湖・円良田湖・明秋釜虎・川里弁天 1,490
10/18(金) 千代田湖   1,219
10/18(金) 東照釣堀 1,000
10/20(日) 北陸地区 1,238
10/20(日) 精進湖 2,000
10/20(日) 神流湖 1,300
10/24(木) 朝日池 1,000
10/27(日) 青森地区 1,622
10/27(日) 山形地区 3,195
10/28(月) 三和新池 1,000
10/31(木) 豊英湖・三島湖 1,365
10/31(木) 西湖 1,500
11/2(土) 横利根川(団体トーナメント決勝前日) 700
11/3(祝) 長野地区A 1,514
11/3(祝) 長野地区B 1,709
11/3(祝) 長野地区C 1,207
11/3(祝) 福島地区 1,146
11/9(土) 横利根川・新利根川(秋季大会前日) 2,165
宮島親水公園・道の口
11/10(日) 秋田地区 2,150
11/14(木) 野田幸手園 2,000
11/17(日) 東海地区 2,517
11/17(日) 浮間公園・川口ふな池・清水池公園・等々力FC 1,351
赤塚ため池公園・横浜山崎の池・多摩川
11/17(日) 水沼ダム・神岡の池・砂沼 1,211
11/21(木) 小貝川吉野 2,744
11/22(金) 横利根川(農水杯前日) 1,000
11/22(金) 清遊湖 1,000
11/24(日) 宮城地区 2,182
11/24(日) 中京地区 3,348
11/28(木) 野田幸手園 2,000
11/30(土) 九州地区 1,062
11/30(土) 千代田湖 1,014
12/6(金) 中の島センター・まこも池・水元公園 1,022
12/6(金) 神扇池 4,000
12/7(土) 三名湖 1,863
12/12(木) 小貝川吉野 2,745
未定 相模湖 五宝亭 1,000
未定 精進湖 995
未定 真嶋園 500
未定 三和新池  1,000
合計 64,173
赤坂支部 例会においてセルフ検量を実施 9月22日(日)千代田湖
 
 高杉北海道地区長が提唱され、8月の役員懇親、9月の地区長懇親でも実施したセルフ検量を、赤坂支部は(年間成績の懸かる)例会で初めて実施しました。
 各自が会から支給された秤で15枚までを目途に量り、検量カードに自分で記入するのです。

 当日の参加人数が9人と少なかったこと、針原から新ロープまで広範囲に散開したことによるものですが、
 やってみた感想は…

 1 フラシ1つはトテモ楽。
 2 ぽっつんで入っても(他の人の釣果が読めない以上)無茶な数字を記入することはありえない。
 3 見える範囲で量った場合(大体の枚数は互いに把握しているため)無茶な数字を記入することはありえない。
 4 多めに書いての優勝と自己のプライドを天秤に掛けた場合、もちろんプライドが優先する。
   よって、無茶な数字を記入することはありえない。


 懇親釣会と同じく、淡々と量り淡々とカードに記入しました。
 その誠意が魚にも伝わったのか、優勝は久しぶりの20キロ超の20.7キロ。私でも14枚11.4キロ。
 赤坂にとって記念すべき一日となったのです。

 
 敢えてセルフ検量の課題を考えると…
 「15時まで釣ると道が混むから」「釣れないから」と、検量カードを舟宿に置いて早退しちゃう
人が出るかもしれない。
 高杉地区長に報告する中で、其のことを話したら
 逆に「お昼までなら参加できるから」という人が来るかもしれないよ。
 ナルホドです。

 昔、遊び釣りでもフラシを使っていました。
 何時の間にか、遊びでフラシを使う人はいなくなりました。
 魚にもヒトにも優しい、例会でのセルフ検量。
 案外早く広まるかもしれません。





千和新ロープに並ぶ





会支給の秤



(赤坂支部広報 吉本亜土)




今後の会議予定について
 
NPO法人としての発足に伴い、今後の会議予定が以下に変更となりました。

10月2日(水)に予定されていた「運営委員会(旧日研における常任理事会から改称)」は開催しない。
       12月12日(木)の社員会と統合する。
      
12月12日(木)社員会(旧日研における理事会から改称)・運営委員会(旧日研における常任理事会から改称)
       参加者:社員、運営委員
       議決事項はない。
       社員および運営委員同士で意見を交換し話し合う。

2月5日(水)NPO法人 日本へら鮒釣研究会 第2回理事会
       企業の役員会にあたる。
       参加者:理事、監事。
       令和6年度決算を承認し、日研運営について話し合う。

日研ニュース629号「名簿特別号」表紙の 2月7日(金)理事会は誤り。
正しくは2月5日(水)です。   
                            総務部


3月1日(土)NPO法人 日本へら鮒釣研究会 総会
        企業の株主総会にあたる。
       参加者:理事、監事、社員。
       主たる議題は令和6年度決算の承認。


理事(社員、運営委員を兼ねる)、監事(社員、運営委員を兼ねる)
社員(旧日研における理事)、運営委員(旧日研における常任理事)の皆さま、宜しくお願い申し上げます。



シリーズ「この人に聞く」第102回 十和養魚場 十和正行氏
日研ニュース令和5年12月発行号(625号)からお届けします。
 


▲季節によってはエビも育てている。これは卵を産む親エビ。


 大阪府の南、古代の「和泉国(いずみのくに)」を泉州(せんしゅう)と呼ぶ。泉北と泉南に分かれ…泉北は堺、和泉、泉大津。泉南が岸和田、貝塚、泉佐野。其の貝塚こそ、へら鮒の故郷の一つである。同地で曾祖父の代から養魚業を営む、十和正行(そうわまさゆき)さんにお話を伺います。(聞き手:広報部 吉本亜土)

本誌 十和正行!楠木正成の子として生まれ、同じく南朝のため、四条畷で討ち死にした楠木正行(まさつら)と同じ名前ですね。
十和 年寄りから言われます。あちらは河内の盗賊。
本誌 昭和27年生まれの私、確かに年寄りだな。楠木正成が盗賊か土豪か御家人か、今も出自ははっきりしません。物流業者という説さえあります。ところで、お生まれは?
十和 昭和54年、今44歳。
本誌 お若いですね。十和家の後継者というお立場ですが、養魚の仕事は何時ごろ始まったのですか?
十和 明治生まれの曾祖父から。最初は趣味でやっていたようです。
本誌 琵琶湖原産のゲンゴロウブナが、明治末期〜大正初期に改良されてヘラブナが生まれた。ヘラブナ養殖の歴史と重なりますね。
十和 当初は養殖の下請けで、森養魚場さんに納めていました。やがて、祖父の代に十和養魚場として本格的に取り組み、昭和40年代末〜50年代、関東へ出荷を始めて発展したのです。
本誌 へら鮒釣りが伸びた時期。日研ニュースのバックナンバーを見ても、放流量が昭和54年に初めて100トンを超えるなど、右肩上がりです。活況の中、十和さんは子どもの頃からお手伝いを?
十和 幼稚園時代から、遊びがてら池へ行ってました。エサやったり、仕事を手伝ったり。
本誌 どのようなエサを?
十和 当時も今も基本は変わっていません。サナギ粉、魚粉、商品にならなかったビスケットの粉、そして蛋白質である大豆粉の配合エサ。昭和40年代は病院から出た残飯も与えていました。
本誌 残飯!
十和 元は病院食なので栄養たっぷり。へら鮒は雑食性だから何でも食べる。朝病院で引き取り、そのまま池に撒いてました。



▲十和養魚場の池。モロコとへら鮒が一緒に暮らしている。何故可能か?
 網の目の大きさを変えれば、別々に収穫できるのである。
 モロコは3〜4種類に選別のうえ出荷される。
 現在は小型の、骨が残らない、子供でも食べやすいモロコの人気が高い。
 へら鮒は此処で育った稚魚が他の池へ移されて大きくなる。


本誌 エサを呉れる人に懐いたりしますか?
十和 はい。エサをやる時間に行くと、軽トラの音、私の足音で寄ってくる。けれど、他人の車や人間では寄ってこない。十和正行の気配が分かるようです。
本誌 可愛いですね。ところで、泉州と云えば勇壮活発なイメージがあります。どのような土地柄ですか?
十和 一言で云えば、ガラの悪いところ。言葉もキツイ。私が20代で放流へ行き始めた頃、人と関わる時は兎に角「なめられたらあかん」と思って生きてました。
本誌 緊張して生きるのはシンドイでしょう。
十和 当時は年上の人ばかり。同業者でも仕事相手でも、周りは勇ましい人が多かった。
本誌 今の十和さんからは信じられません。負けん気の上に、紳士の十和正行があるのですね。なにより、泉州と云えば地車(だんじり)が有名。9月半ばになると、東京のTVニュースにも岸和田祭が登場します。賑やかな囃子と共に地車が引きまわされ、其の屋根では団扇を手にした大工方(だいくかた)が跳ね回ってる。人間技とは思えません。
十和 私の住む貝塚も凄い。岸和田は道が広くて見やすいから見物人が集まるけど、貝塚の方が道が狭い分、緊張感と迫力がありますよ。
本誌 なるほど。
十和 ところが其の地車、へら鮒の出荷に影響があります。
本誌 え!
十和 北海道への出荷が地車の季節と重なるのです。
本誌 というと?
十和 へら鮒の出荷のため、池の水を抜く必要があるでしょ。地車は当地で大切な行事で、地車関係者には池の水利関係者も多い。そのため、祭り前に水を抜いてトラブルが生じると面倒なのです。
本誌 なるほど。
十和 9月10月に水を抜ける池は少ない。水を抜かしてくれる池を見つけ、魚を集めておく必要があります。



▲十和養魚場の池。育ったへら鮒を此処でキープして出荷する。


本誌 そして、今年も10月8日(日)の北海道地区から放流が始まりました。大変な長距離移動です。是非、其の様子を教えてください。
十和 水槽の数や水槽の大きさは、放流場所によって変わります。今回の北海道は8トン車に載せて行きました。
本誌 どんな手順で進むのですか?
十和 まずは魚のエサ断ち。出荷するセンター池に魚を集め、1カ月間エサを与えず身を引き締め、長距離輸送に耐える筋肉質の身体にします。
本誌 お腹をカラにするだけではないのですね。ところで、放流時は水槽から大きなトイで流しますが、水槽に入れる時は?
十和 網で魚を寄せ、タモで掬い、水槽まで手作業のバケツリレー。



▲十和養魚場の倉庫
 池を仕切る網、魚を引く網。網でいっぱいである。


本誌 手作業でしたか!
十和 皆、十和の下請けとして養魚に慣れた人ばかり。金曜日の朝8時頃から始め、1時間ほどで終わります。朝9時に貝塚を発ち、阪和道、近畿道、名神、北陸道と走り、新潟の村上ICで下りてからは下道。そして途中で水を替える。
本誌 確かに、水槽の広さを考えると水替えは欠かせません。
十和 そう、エサ断ちしても糞をする。しかも気温が高い=水温が高いと水が腐るため、水替えは極めて大切なのです。へら鮒の健康を気遣いながら日本海沿いの国道7号線を酒田、秋田、大館、弘前と通過し、青森到着が夜中の2時。秋田で富樫釣具店の奥様が御弁当を差し入れてくれるのが、なによりの楽しみです。
本誌 青森からフェリーですね。
十和 函館へのフェリーは2社あるので、早い方に乗ります。
本誌 此処まで寝ずの運転が17時間。フェリーで漸く眠れますね。
十和 いや、寝られない。魚の様子が気になるため、船の仮眠室へ行けません。へら鮒は酸素を入れ過ぎてもダメで…酸素が多いと動きが活発になり、魚が擦れ合って血しぶきが出るので酸素調整には細心の注意が必要なのです。
本誌 大変ですね。そして函館。
十和 海上4時間。土曜日の朝6時に函館に着き、軽油を補給する函館の燃料屋さんで水槽の水を入れ替え、更に下道を3〜4時間走って苫小牧へ。
本誌 地蔵沼ですね。森に囲まれた美しい沼。
十和 魚が傷まぬよう、苫小牧の人たちが前日放流を手配してくれるので助かります。30分程で終了。
本誌 貝塚を出てから、未だ寝てませんよね。地蔵沼からは?
十和 旭川です。北海道の友人が御飯に誘ってくれる。飲んで食べて、ベッドに入るのが午前0時。
本誌 ということは…2日間近く一睡もしない!驚き尊敬する他ありません。そして翌日曜日、各地で放流ですね。
十和 朝一で旭川の藤沼から始まります。続いて滝川の池の前水上公園沼(註 砂川市北光公園沼も予定されていたが、クマ出没のため中止。其の分を池の前へ放流)、札幌の北に位置する月形皆楽公園沼、北村地区のふれあい公園沼・へら鮒公園沼(レンギョ沼)、中津湖(砂取沼)と回りました。各地で北海道の人たちが手伝ってくれます。
本誌 北海道の高杉地区長が「北海道のへら鮒釣りがあるのは、ただただ十和さんのおかげ」と感謝していますよ。
十和 日曜の昼に終了。昔は其の後に苫小牧の地蔵沼でした。それでは魚が傷んでしまうため、土曜日の前日放流に変わったのです。
本誌 貝塚への帰路は?
十和 小樽から新日本海フェリーで舞鶴へ。
本誌 往路、舞鶴から小樽へフェリーでへら鮒を運べば楽に思えますが。
十和 それでは水が替えられません。水温が上がり、魚が船酔いして死んでしまう。そのため、フェリーは使えないのです。
本誌 フェリーに乗ったら爆睡?
十和 いや、運んでいる時の緊張感が抜けず、個室に入っても眼が冴えてあまり眠れない。
本誌 麻雀やった後みたいですね。
十和 月曜の夕方、舞鶴に着いて貝塚の自宅へ戻り、ようやく家のベッドに入り…そして翌日は通常どおり養魚の仕事です。
本誌 お話を伺い、ただただ感謝しかありません。で、肝腎なことを伺います。養魚の御仕事は儲かりますか?
十和 年収は極めて悪い。働き始めて20数年「変わっていない」と言ってよいでしょう。親の代からの家があり、魚が好きだからやっていけてます。
本誌 魚の価格が上がりましたが。
十和 下請けさんに還元してます。そうしないと、魚を育てる下請けさんが止めてしまう。自分の身を削っても、下請けさんを守ることが大切なのです。
本誌 感謝と共に不安が湧いてきました。養魚の後継者はいるのでしょうか?
十和 一番若いのが山口養魚場。次が自分。カワウの影響で魚が獲れない。儲からないから、子供に継がせられない。現在、主要な養魚業者は大阪で3軒、四国で3軒です。
本誌 へら鮒釣りの将来は「養魚業者の存続」に掛かっています。今後の夢というより、今後への提言を頂きたいと思います。
十和 先ずは大型に拘ることを見直し、本物のへら鮒の形とは何か、どんな姿が恰好良いか。考え直すことかな。私は7〜8寸のへら鮒が一番美しいと思う。しかも7〜8寸が沢山いれば、真冬の釣り堀へ行ってもアタルでしょ。
本誌 はい。日曜日に大型の池へ行っては度々オデコを食らってます。
十和 大型を求めだしてからおかしくなった。やはり、へら鮒釣りは浮子が動いてナンボでしょう。例えば、私が7〜8寸の魚を入れている埼玉県三郷市の不動池は「冬でも釣れる」と評判。名古屋の加福フィッシュランドも放流を任してくれ、浮子が動いて人気が出て、次に大型を入れたら動かなくなっちゃった。
本誌 よく分かります。
十和 池のオーナーが「冬でも浮子の動く釣りが楽しいでしょ」と釣り人を指導することが大切なんじゃないかな。ところで、吉本さんは何処に住んでいるの?
本誌 東京の杉並です。
十和 うちは練馬(註 杉並の北に隣接)の釣り堀「金木」が中野にあった頃から、へら鮒を納めてました。
本誌 金木!日研に入った20代後半、よく行ってました。十和養魚場は東京のへら鮒釣りも支えてこられたのですね。問題山積ですが、へら鮒釣りの将来は「養魚場に掛かっている」と言っても過言ではありません。何卒御身体を大切に、此れからも御活躍ください。




シリーズ「この人に聞く」第100回 ブルーエコ協議会 河合正典氏
日研ニュース令和5年7月増刊号(622号)からお届けします。
 


▲氏の背景は、アルファベットと数字を組み合わせ、海上における船舶間通信に使用する国際信号旗のA。
 船に此の青と白の旗を掲げると「海中でダイビングや潜水作業をしています」の意味となる。

 良い環境でへら鮒釣りを楽しみたい。目に見える範囲に留まらず、水中の状況にも気を配りたい。毎年、ダイビング仲間と共に西湖や精進湖で湖底清掃にあたってくださる河合正典氏(八幡野ダイビングセンター代表、ブルーエコ協議会代表幹事、日本釣振興会評議員)にお話を伺います。(聞き手:広報部 吉本亜土)

本誌 毎年の湖底清掃、ありがとうございます。浜辺に積まれたゴミの山を見る度、感謝と胸の痛みで複雑な気持になります。先ず、お生まれは?
河合 昭和22年11月、品川区の立会川で生まれました。家の裏が海、子供の頃の遊び場は大井競馬場周辺。今でこそ内陸だけど、当時は競馬場が出島のように海に囲まれていた。
本誌 え!初めて知りました。
河合 競馬場の護岸でワタリガニを獲ってました。鈴ヶ森の刑場(註 江戸時代、東の小塚原と並ぶ二大刑場)辺りはハゼ釣りのメッカで…季節になると大変な人波。
本誌 そのまま品川で育たれたのですか?
河合 小学4年で横浜市金沢区富岡町へ引っ越しました。今は埋め立てで海岸線が遠くなったけれど、当時は釣りも潮干狩りも出来ました。
本誌 昭和27年生まれの私、潮干狩りは富岡の少し先の金沢八景。5年間で海が遠くなったことが分かりますね。ところで、ダイビングとの出会いは?
河合 学生時代です。
本誌 昭和40年頃でしょ。学生のダイバー、珍しかったのではありませんか?
河合 そうです。学校で友人に話すと「凄い金が掛かるでしょ。セスナをチャーターするんだよね」と驚かれた。
本誌 それって、海ではなく…
河合 そう、スカイダイビングと思われたのです。海に潜るのは潜水夫の御仕事。「趣味で潜る」なんて超変わり者だった。
本誌 最初に潜られたのは?
河合 横須賀沖の猿島。いきなり、海水パンツで友人から借りたボンベを背負った。海中の景色を見てドウコウより、「自分は水中で呼吸している!」の感動でした。
本誌 いきなりが凄い。その後、ダイビングの道を進まれたのですか?
河合 いや、卒業後は高度成長時代の戦うサラリーマン。ダイビングや釣りから暫く離れました。沖縄営業所へ転勤希望を出しても「河合では遊んでばかりだろう」と通らない。
本誌 しかし、そのまま終わらなかった。
河合 そうです。北陸3県を統括する営業所の責任者として金沢へ赴任し、北陸の海と出会ったのです。地元の友達ができ、それが遊んでばかりの人たちで、勤務中に「マリーナで待ってるから早く来い」と電話が掛かってくる。
本誌 まあ素敵!海は如何でした?
河合 太平洋側に比べると地味で、黒い魚が多いかな。カラフルな魚はいません。
本誌 北陸の後は?
河合 転勤で東京へ戻りました。引き続き国内営業のハードな世界に身を置きながら「これでいいのかなあ」。一方、ダイビングは続けてました。週末ごとに伊豆へ通い、地元の漁師や漁協の人たちと交流が生まれ…39歳の時「此の八幡野(やわたの)でダイビング屋をやらないか」のお誘いを頂いた。
本誌 素晴らしい!お伽話のようです。
河合 一部上場企業で、部下も20何人いて、さあドウスル。上司の国内営業本部長に「私は何処まで出世するでしょう?」と尋ねてみました。
本誌 誰もが知りたいけど、勇気の要る質問ですね。お答えは如何でした?
河合 「定年までいても平取になれるかなれないかだな」。そこで「ならば、私は社長になります」。八幡野でダイビングショップを立ち上げちゃいました。
本誌 まるで映画です。
河合 伊豆へ行く途中、車のラジオで昭和天皇崩御のニュースを聞いたのを覚えています。会社をやめ、その平成元年4月にダイビングショップを設立。
本誌 もちろん河合さんの人柄が大きいでしょうが、地元の人たちがダイビングに注目した理由は?
河合 「漁業の先行きは不透明。レジャーを取り入れていく必要がある」と考えたのです。いわゆる「海業」への進出ですね。漁師は地先の海で勝手に潜られたら「アワビや伊勢海老を獲られるのでは」と不安になる。けれど、船を持っていても、ダイビングショップを経営するのは簡単ではない。一方、船を持っていない私は誰かのお世話になる必要がある。「誰かやってくれないかなあ」と「船を出してくれないかなあ」が合致したのです。
本誌 地元との協調は大切ですね。それがなければ全てうまくいかないでしょう。
河合 そして、私は移住して八幡野の住民となりました。



▲ダイビングセンター前の八幡野港


本誌 東伊豆に位置する八幡野の海、魅力は何ですか?
河合 八幡野の北東、城ケ崎海岸をご存知でしょ。
本誌 ごつごつした岩場に吊り橋が架かってる…
河合 そうです。この辺りの海岸は大室山の爆発による溶岩流で生まれた。あの景色が海中へと続いているのです。加えて、八幡野の目の前の大島まで直線距離で20キロだけど、一番深い所は水深1千m。
本誌 初めて知りました。
河合 深海から潮が上がってくる。底ががちゃがちゃしているから海流が渦を巻く。動物性プランクトンが大量に発生する。魚がエサを求めて寄ってくる。城ケ崎海岸から八幡野は生物の種類や数が多く、カリフラワのような姿のソフトコーラル(細かい骨片を持つ軟質サンゴ)も沢山います。
本誌 サンゴとカラフルな魚たち!絵になりますね。そんな海の中で、季節を感じることはありますか? 
河合 明らかに魚が変わります。但し、今は「変わっていた」と云うべきかもしれない。
本誌 どのような意味ですか?
河合 昔は、良い表現じゃないけど「死滅回遊魚」という言葉がありました。南の熱帯魚が黒潮に乗ってやってくる。日本の寒い冬を越せずに死滅する。最近は「季節来遊漁」と呼ばれるようになり、加えて海水温上昇の影響でしょう、珊瑚礁の魚が冬を越してしまうのです。クマノミは八幡野の海で繁殖し、イソギンチャクの横で一年中群れてます。
本誌 沖縄の魚が伊豆で見られる。お客さま、喜ぶでしょう。さて、八幡野で見て欲しい魚は何ですか?
河合 なにしろ種類が豊富で、サメなら底生のネコザメやナヌカザメは何時でもいる。大きなニタリザメやシュモクザメもやってくる。大物ならマンボウかな。イメージと違い、決してボ〜ッとしていません。時々畳ほどあるのを見かけるけど、泳ぎ出したら凄いスピードです。
本誌 天然の水族館で御仕事しているようなものですね。
河合 そうだ、今「八幡野で見て欲しい魚」と仰ったけど、今は「お客さまが見たい魚」の時代なんです。
本誌 なるほど。好みが細分化され、「此れはいますか?」の問合せが来て、人も集まるのですね。
河合 そう、一人一人会いたい魚が違う。ウミウシが好きな人は下ばかり見ています。
本誌 ところで、八幡野と云えばブダイ釣り。中学生の頃、冬になると釣り雑誌に「赤い棒浮子を使った、ハンバノリが餌のブダイ釣り」が載ってました。今は如何ですか?



▲水之趣味(昭和36年12月号)の広告。八幡野へ石鯛・舞鯛(ブダイ)の釣りバスが出ていた。


河合 20年前はやってました。漁師が高齢化して磯渡しをしなくなったからかなあ、近年ブダイ釣りの姿を見かけません。
本誌 わざわざ磯に渡らなくても、目の前の岩場で釣れるのでしょ。
河合 潜れば赤や緑のブダイが一年中泳いでます。決して魚が減ったわけではありません。コブダイもいる。石鯛もいる。
本誌 石鯛釣りも昔は四国九州へ遠征する人さえいたけど、今はどうでしょう。
河合 エサ代が高いからかなあ。そうだ、エサ釣りをしなくなっている。
本誌 確かにマダイも疑似餌で釣る時代です。
河合 生エサを使う釣りが減っている。鮎の友釣りさえ、オトリ鮎を使わずダミーを使う人がいます。
本誌 1月の釣りフェステイバルで見て驚きました。昔はゴムのおもちゃみたいだったのが、凄く精巧になっていた。
河合 八幡野でも岩場からルアーを投げてます。
本誌 生エサに触るのがイヤなのか?考える価値がありそうですね。 
河合 とはいえ、エサ釣りは楽しい。一昨日、西伊豆の南、安良里(あらり)の堤防に友人と並び、「これでベラを釣るのが究極の釣りだよね」と言いながら、延べ竿にオキアミでエサ釣りしました。
本誌 景色が見えるようです。ところで、毎年お世話になっている湖底清掃。取り組んだ切っ掛けをお教えください。
河合 海に潜っていて、目の前にジュースの空缶が落ちていれば拾う。大上段に振りかぶっての環境保全活動でない、自然発生的なものでした。ダイビング仲間で「たまには世の中に良いことをしよう」とサークル感覚でやっていたのが始まり。
本誌 私たちが釣りから上がる時、周囲のゴミを拾ってくるのと同じですね。
河合 30年ほど前から名前が「ブルーエコ協議会」となり、それがたまたま水産庁で日釣振(公益財団法人 日本釣振興会)とマッチングしたのです。
本誌 水産庁!
河合 それまで、日釣振はプロの潜水夫を頼んで海底清掃をやってました。費用はお高いけど、日釣振は「大切だから」と続けていた。それを水産庁が「潜ってゴミを拾うサークルがあるよ。一緒にやっては如何」とつないだのです。
本誌 初めて知りました。
河合 水産庁から声が掛かり、「君たちに頼んだ場合、費用は?」と尋ねられ…「タダです」。此れが20年ほど前。「御弁当くらい出しますよ」で日釣振の海底清掃をお手伝いすることとなりました。
本誌 素晴らしい!
河合 この日釣振のお手伝いを機に、サークル活動「ブルーエコ協議会」を、12年前に社団法人化しました。今は日釣振の評議員も務めさせていただいています。
本誌 そして、内水面へと活動の場が広がったのですね。
河合 日釣振との出会いにより、湖底へも広がりました。北は猪苗代湖、檜原湖、五色沼。西は浜名湖、琵琶湖。当時は地元に潜水による清掃サークルがなかったため、遠方から御座敷が掛かったのです。
本誌 現在は?
河合 各地で同じような活動をするサークルが増えました。
本誌 ブルーエコの活動を機に地元で芽が吹き、育ったのですね。
河合 そのとおり。私たちがわざわざ遠くへ行かなくても済んでいる。現在、ブルーエコの活動範囲は山梨、静岡、神奈川、千葉、東京の海底と湖底です。
本誌 私、各地で盛んになったのは…理想だけでなく「面白い楽しいがあるからでは」と思ってます。潜らなくても、ボートの上で回収ゴミの受け取りを待つ間「何が出てくるか」わくわくする。湖底清掃には宝探しの魅力があります。
河合 よく分かります。昔のエサ袋を見れば「こんな絵柄があったなあ」と思う、コーラの缶も今とデザインが違う。「面白いから続いている」はありますね。
本誌 タイヤや建築資材も多い。
河合 残念ながら、水面をゴミ箱として使う人がいるのです。
本誌 此れまで、変わった物が上がったことがありますか?
河合 諏訪湖で上がった大量の女性物パンツ。それもセクシーなパンツばかり出てきた。マニアが家に置けず、処分に困って捨てたのでしょう。皆で大笑いしました。
本誌 諏訪湖の水は如何でした?湖畔に立つと綺麗とは云えません。
河合 透明度は良くない。今まで潜った中でも水が悪い。琵琶湖も北は良いけど南はダメ。
本誌 昨年の精進湖での湖底清掃の折、「ヘドロが舞い上がって視界が悪い」と聞いて胸が痛みました。ヘドロとは何ですか?



▲令和5年6月22日 精進湖における湖底清掃
 右端が河合正典氏


河合 ヘドロは泥の細かい粒。植物プランクトンの死骸が海底や湖底に落ちる。水が動けば溜まらずに流れてしまうけど、動かないと陸から来た軟土が堆積し、共に溜まっていく。やがて、海ならば硫化水素が発生。
本誌 不穏です。
河合 バクテリアが酸素を食ってヘドロの中も軟泥も酸欠になる。すると、海底に穴を掘ることで水の循環と水質改善に貢献し、魚のエサにもなっていたゴカイやヒラムシが死んでしまう。やがて、ヘドロの上の水も海自体も酸欠になる。動物プランクトンも生きていけず、それをエサとする魚も生きていけない。負のスパイラルに陥るのです。
本誌 海は硫化水素が出るのですね。
河合 淡水の場合は硫化イオンがないため、酸欠になるとメタンガスが出てくる。
本誌 ボコボコと泡が湧きます。
河合 それがメタン。湖底が酸欠になることは一緒です。
本誌 ヘドロにはどのような対策を取れば良いのですか?
河合 一番良いのは定期的に浚渫すること。但し経済的合理性があるかどうか。
本誌 釣り堀もポンプでヘドロを吸い上げると聞きます。
河合 他にはウナギの養殖池で見かける水車で水中に酸素を送り込む。低酸素になるとヘドロ化するので、効果あるでしょう。
本誌 釣り堀でも見かけます。
河合 しかし、湖に設置するのは難しいでしょう。海も潮回りが悪いと耐えきれず、負のスパイラルに陥って酸欠の海となる。八幡野も川からの泥が堆積しています。
本誌 鎌倉時代だって、川はあったのでは?
河合 いやいや、当時は陸地での開発行為がありません。人間が余計なことをすると、海にヘドロの元が来る。沖縄がそうでしょ。なんらかの人為的対策が必要です。
本誌 へら鮒のエサはヘドロの元となり、湖に悪影響を与えているでしょうか?
河合 元の一部にはなっているかもしれない。けれど、全体の中では軽微な問題と思います。精進湖の湖底がヘドロになるほど、エサを打っていないでしょ。
本誌 ほんの少しホッとしました。
河合 精進湖も雨水と共に泥が流入しているのでしょう。海には海流に加えて満潮と干潮があるから水が動く。しかし湖は流れがない。ヘドロ化するスピードが早いかもしれません。
本誌 西湖は如何ですか?
河合 西湖に潜ると、結構礫(れき:小石)が多い。そして、湖底から水が浸み出ているのが分かる。そんな場所でクニマスが産卵してます。
本誌 精進湖も富士山の縁にあり、条件は一緒と思うのですが…。
河合 河口湖も河口湖大橋の方はヘドロがきつい。山中湖も綺麗じゃありません。
本誌 そうだ、海釣りのオキアミもヘドロの元でしょう。
河合 そのとおり。八幡野で潜ると、メジナのポイントが分かる。岩が真っ白になっているのです。打ち過ぎたコマセが沈殿し、オキアミの油が海藻を殺し、魚が寄らないから更にコマセを打つ。悪循環です。
本誌 だから、西湖ではヒメマスもワカサギも「コマセ禁止」なのですね。河合さんのお話を伺っていると、釣り師としての責任を感じます。さて、最後にブルーエコ協議会として将来への抱負をお聞かせください。
河合 昔は変わり者と云われたのが、今や活動は全国に広がっています。増えたことは良かった。けれど本当に良かったと思えるのは…海や湖が綺麗になり、潜っても何も落ちていない「海底清掃、湖底清掃をやっても仕方ない」時代が来ることです。
本誌 私たちも心して竿を出すようにします。此れからも宜しくお願い申し上げます。




▲令和6年6月20日 精進湖における湖底清掃
 左端が河合正典氏




いまやらねばいつできる わしがやらねばだれがやる  
                                投稿 高杉富士夫
 
 平櫛田中(1872〜1979、彫刻家、1962年文化勲章受章)の名言である。晩年に命を削って精力的に作品を残し続ける折、「よお頑張りなさる」に応えた、とのそれである。
「俺がやらなきゃ誰がやる」とした引用が独り歩きし、巷に氾濫されつくした。また「いつやるか今でしょ」と引用されたことも有名になった。

 駄文の1文字目を記すことになる今は、お盆を終え、来たるべき全国地区長会の荷造りに嬉々としていそしんでいるところである。先週までは随分と忙しいスケジュールであった。元来は釣りに忙しいのだが、それがため忙しく感じたことは経験上一度とてない。しかして「2つの沼を藻刈りして釣り場の整備をボート(所属支部所有)まで出して」と、青天の霹靂で「釣り禁止」の場所を通告された関係各位の間を奔走(通告者側の一方的な誤解)し、「元通りに使えるように動き回った」ことは、僅か3週間ほどの間の出来事だったから、「気付けばオレ、殆ど釣してないな〜」で「忙しかった〜」の感想をもたらされることになったのである。

 さて、来たる9月8日(日)、全国地区長会が開催される。
 一番の大事は言わずもがな、遠藤理事長が提唱し執行部が尽力した日研のNPO法人化が主題となる、全国地区長会を兼ねる、NPO法人としての第1回理事会であろう。他方でお楽しみは…全国の釣り仲間との再会が外せない。特に地方の接頭に「最」をつけることができ得る北海道にあっては、年一の機会である。そして、前日に三名湖で行われる全国地区長懇親釣会も、楽しみなそれだ。飴と鞭と例えるならその飴は相当に甘い筈だが、去年のそれは辛かった(内緒だがデコった)。
 さて、その懇親釣会の検量方法は、数年前からリモート検量(セルフ検量)となった。各人がマイデジタルぶら下げ秤を持参し、自ら量ってカードに書き込み、釣果を競う。全世界に罪をまき散らしたコロナがへら鮒釣り界に生んだ、数少ない功の一つかもしれない。

このリモート検量を導入する切っ掛けになったのは、実は所属の北海道地区新べらクラブ支部の「コロナ下でもなんとか例会がしたい」の一念からだった。
@ へら鮒釣りはお外でやる
A 隣とは3mは離れるお約束がある
B 検量さえなんとかできれば、「密」にならず、例会の道中は安全だ
ガラガラポンで件のリモート検量が生まれたのだ。さて、簡便でへら鮒に優しいリモート検量には絶対に必要なものがある。

 フラシ、これが1枚で済むのが感動ものだ(フラシの中が規定枚数に達したら、検量して再放流)。因みに去年の筆者には必要なかったことは、この際気が付かないで欲しい。デジタル秤(ぶら下げ式)、ネットで千円を切るような価格で手に入る。そしてスマホ、ただし写真が撮れればガラ系でも何ら問題はない。なぜ写真か?これはデジタル秤の性能が良すぎるために発生する事故を防ぐ意味を持っている。実運用されればアルアルと自明の理なのだが「いつの間にかオンスでさ〜(デジタル秤はボタン一つでKGとOZが切り替わる)」の事故もあるからで、兎に角表示画面を写真にさえ残してあれば、後々単位違いとして換算・修正が可能になるからである(広報部註:中央の役員懇親および地区長懇親では各自が注意することとし、写真は撮っていません)。
 あとは〜、具体的なブツは以上であり、へらバックもフラシで嵩張ることはないが…「へらバックに入りきらない」ほどのそれも、実は絶対に必要なものとして釣り座に持参しなければならない。言わずもがなだが、ジェントルマンシップである。

 自身がそこに入っていることは心苦しいが、地区長懇親釣会は地区を背負う錚々たるジェントルマンの集合だ。曰く「懇親釣会だから成立するけど、これが一般の大会にもとなるとね〜」「確かにへら鮒には優しい丁寧な扱いにはなるよね〜」。こうした会話は至極当然である?

 イヤイヤ、これで良いのだろうか?果たしてこのままで良いのだろうか?
 放流量が減り、高齢化は進み、減と増が生み出す未来は明るくないことは皮肉にも明白なのだ。我が所属支部で採用した際にも実は本当に「勇気」は必要だった。しかし、これは非常に残念なことだ。自身が所属する支部にあってなお「実運用に勇気が必要」とは…。所属会員のジェントルマンシップに一点とて疑いを持っていなければ、導入に際して必要だった「勇気」なぞ、頭の片隅にさえ浮かばないはずだからだ。

 ならばこそ、いまやらねばいつできる、わしがやらねばだれがやる。
 至極簡単である、名言の一人称を「日研」と換えるだけだからだ。
 日研が進んできた道の途上で「遊び釣りでフラシを出す」ことはなくなった。今こそ進むべき未来に「ジェントルマンシップにより、全国一律リモート検量になった」を刻むその時が来ている、北海道ジェントルマンは本気で思っている。
天秤ばかりの左には、非ジェントルマンシップたるズルや不正がぶら下がっていることは、残念だが筆者も承知している。しかして、もう一方の先にはへら鮒減少の因である放流量減やガサベラに対応すべき「より丁寧に資源を扱う」がぶら下がっているのだ。

 その天秤がどちらに傾くのか、否、傾けるのかは日研会員ならば答は知っているはずだ。いまやらねばいつできる、日研やらねば誰がやる。大上段に振りかぶりては、先ずは人称を「支部」「地区」から…。高いジェントルマンシップなくばできえない、いやさ持ち得てる我ら日研ならばこそ…。会員をへら人を信じましょうぞ。


2週間後の全国地区長会議を控えて
北海道地区長 高杉富士夫





苫小牧釣遊会支部が管理する地蔵沼にて
同支部は同沼でフラシを使わず、カウンター勝負の例会を行っています





NPO法人 日本へら鮒釣研究会 発足にあたり 理事長 遠藤克己
 
 去る7月23日、日本へら鮒釣研究会は「特定非営利活動法人(NPO法人)日本へら鮒釣研究会」として所轄の地方自治体である東京都知事の許認可を得ることができました。
 これにより、昭和25年に誕生した日本へら鮒釣研究会および昭和47年に日研を母体として生まれた全日本へら鮒放流協議会は合流して一体となり、更なる釣り場の保全、へら鮒釣り文化の伝承に取り組んでまいります。

 さて、何故このタイミングでNPO法人化の道を選んだのか?不思議に思われる方もおられるでしょう。それは、へら鮒釣り、特に野釣りを守るためです。幾多の先人が情熱を傾け、苦難を乗り越え、へら鮒釣りを盛り立て、連綿と紡いできたおかげで、我々の今が在ります。釣果を見ても昭和の頃には考えられない数字を記録する時代が続きました。しかし、次第に外来生物やカワウの食害、放流量の減少、環境問題、釣り人の高齢化、釣り人および釣会の減少などの諸問題を抱えるようになり、今日に至っています。へら鮒釣りの聖地である横利根川や精進湖における舟宿の廃業はその象徴と云えましょう。

 そんな厳しい環境の下、へら鮒釣りを守り、次なる世代に伝承していくためには「社会的な信用度を高めることが極めて重要」と考えました。NPO法人となることにより放流協賛金などの寄付金受領、委託放流、金融機関との取引を法人として行うことも可能となります。財務経理の書類をはじめとして運営状況も公に晒されるため、これまで以上に適正であることが求められます。そこまでするのか!と思われるかもしれませんが、へら鮒釣りを取り巻くすべての関係者に理解を求め、浄財を募り、基本財産を厚くし、へら鮒釣りを次代へ引き継いでいきたいと考えています。

 第1回の理事会は9月8日(日)、全国から理事が集まって開かれます。
 これからもNPO法人日本へら鮒釣研究会を宜しくお願い申し上げます。


NPO法人日本へら鮒釣研究会理事長
遠藤 克己




8月18日(日)赤坂支部例会
豊英湖仲台で23.4キロ釣って優勝しました
会員が確認しあっての現場検量です




NPO法人 日本へら鮒釣研究会 認可さる
 
 日研および全放協(全日本へら鮒放流協議会)を一体化のうえ「NPO法人日本へら鮒釣研究会」となるべく手続きを進めている旨、日研ニュースでお伝えしてきましたが、6月19日に目出度く東京都の認可を頂くことができました。

 先人の努力に感謝し、社会的信用ある組織として、これからもへら鮒釣り文化の継承、釣り場の保全、放流事業などに取り組んでまいります。
 
 宜しくお願い申し上げます。

                                      日本へら鮒釣研究会理事長 遠藤克己


定期総会を開催
 
 3月2日(日)多くの来賓をお迎えし、へら鮒釣りとも縁の深い川口市の駅前に立つ川口フレンディアにおいて総会を開催。遠藤理事長はじめ現執行部の続投、令和5年度の決算、令和6年度の事業計画および予算が承認されました。合わせて、団体トーナメント「1チーム選手4人制」および「NPO法人化」について報告がありました。

 ついで、令和5年度の成績優秀者および高齢者特別表彰が行われました。
 今年も日本へら研はへら鮒釣りのために尽力します。


                                                    敬称略


遠藤克己理事長挨拶
 


公益財団法人 日本釣振興会専務理事 下山秀雄氏ご挨拶
 


巽支部およびFBクラブより放流資金贈呈(左より橋本幸一、阿川眞治、遠藤理事長)
 


令和4年度団体トーナメント優勝 佐原支部より優勝カップ返還
 





令和5年度団体トーナメント優勝 巽支部
 


令和5年度 農林水産大臣杯優勝 嶋田秀勝(佐原支部)
 


令和5年度 スポーツ庁長官杯優勝 AOY中央の部優勝 種市俊昭(池上支部)
 
城北ブロック 釣会総会 2月12日(月・休)武蔵の池
 
 2月12日(月・振休)、武蔵の池において城北ブロックの総会釣会を参加46名にて開催。
 「令和6年には2支部が減り4支部となってしまう」ため、昨年の三名湖大会にて急遽役員会が開かれ「城北ブロックは解散する」方向となり、この総会に諮られたものである。事務所に全員が集って総会が開かれ、解散が決定した。
 会員の皆様、長きに亘りありがとうございました。余剰金の一部は今大会の賞品代として皆に還元し、残りは放流資金として日研本部に贈呈することとなった。
 当日の釣況は宙釣りの人もいたが、殆どの参加者は段底。広報子は事務所で成績を見ていたが、朝から新倉昇(成増)が段底で独走。この日は少し減水していて、普段なら12尺だが今日は11尺が丁度良かった。2位の阿部修(鴻巣)と3位の田中誠(成増)は終了間際に良型を釣って上位に食い込んだ。

◆成績◆ s
優勝 新倉  昇(成増) 5.380
   座席番号108 竿11尺段底、ウドンセット7枚
2位 阿部  修(鴻巣) 2.480
   座席番号61 竿12尺段底、ウドンセット3枚
3位 田中  誠(成増) 2.430
   座席番号106 竿11尺段底、ウドンセット3枚
4位 布施川 清(上福岡) 2.230
5位 富永  貢(新星)2.150
6位 梅沢 義男(川越)2.150
7位 森   勝(成増)1.700
8位 小平  護(新星)1.440
9位 毛利  允(成増)1.420
10位 本橋 力雄(上福岡)1.250
最大重量1248.44g 座席番号67
11位 川崎 伸一(新星)1.160
12位 `島三佐雄(新星)1.130
13位 須藤 良治(個人)0.930
14位 岡田 勝治(新星)0.920
15位 戸井田正男(川越)0.770
16位 羽鳥 武男(鴻巣)0.750
17位 村田 啓二(上福岡)0.700
18位 金井 善明(成増)0.650
19位 増田 知克(大泉)0.610
         以上有釣果者

(広報部 加賀美勝)


左から 2位・阿部 修(鴻巣)、優勝・新倉 昇(成増)、3位・田中 誠(成増)
 
役員懇親釣会 12月16日(土)野田幸手園(竹・もみじ・アカシア桟橋)
                           参加:56名
【成績】
順 位 氏 名 支部名 役 職 釣果(kg)
1 岡崎 一誠 青空一竿 渉外副部長 35.70
2 鈴木 義弘 草松 企画副部長 21.20
3 石崎 肇 浮藻 企画部員 17.50
4 若狭 賢三 川越 相談役 16.70
5 遠藤 克己 赤坂 理事長 15.90
6 植原 亨 岩井 企画部長 14.70
7 河野 一機 赤坂 放流部員 14.30
8 関 成市 岩井 企画部員 14.10
9 田上 弘 取手 広報副部長 13.90
10 早川 浩雄 個人会員 全放協副会長 13.30
10 石井 真二 松戸 理事 13.30
12 永松 敏行 利根 理事 12.50
13 竹野谷 重光 浮藻 企画副部長 11.70
14 星野 和游魚 赤坂 総務副部長 11.30
15 坂巻 茂夫 東葛 企画副部長 11.00
15 伴野 高虎 大森 総務副部長 11.00
17 伊東 幸男 佐原 総務副部長 10.40
18 成田 和也 浮藻 副理事長 10.00
18 渡辺 直行 亀有 企画副部長 10.00
20 高橋 博 赤坂 総務副部長 9.70
21 山本 照夫 成増 渉外副部長 9.60
22 小山 一郎 上越 相談役 8.80
22 数野 順久 甲斐 部員 8.80
22 高柳 光雄 個人会員 企画副部長 8.80
25 大久保 隆司 青空一竿 理事 8.60
26 眞崎 栄 若竹 特別会員 8.20
26 阿川 眞治 企画副部長 8.20
28 増田 浩三 大泉 相談役 7.80
29 石山 隆典 個人会員 相談役 7.60
29 戸叶 昭久 若竹 相談役 7.60



       優勝 岡崎一誠渉外部副部長(青空一竿)




         優勝 岡崎一誠氏の釣り姿




           戸叶昭久相談役




   手前から松井 修相談役(若竹)藤井義一放流部長(上野)




           遠藤克己理事長(赤坂)




手前から成田和也副理事長(浮藻)早川浩雄全放協副会長(個人会員)




         坂巻茂夫企画部副部長(東葛)




       高柳光雄企画部副部長(個人会員)




       山梨地区 渡辺 仁副部長(富士五湖)
 
2023年度 AOY競技 最終成績



        中央の部第1位の池上支部の種市 俊昭


中央の部 最終成績
順位
氏 名 所属支部 春季
春季
法要
釣会
支部長懇親釣会 スポーツ庁長官杯 秋季
秋季
個人ベストテン 団体ベスト5 団体トーナメント 農水杯 合計
順位 得点 順位 得点 順位 得点 順位 得点 順位 得点 順位 得点 順位 得点 順位 得点 順位 得点 順位 得点 順位 得点
1 種市 俊昭 池上 2 24 1 25 4 22 71
2 西宮 清 赤坂 7 19 6 20 5 7 6 20 66
3 斉藤 宏一 彩倶楽部 3 23 2 24 6 15 62
4 井関 薫 あずま 3 23 2 24 47
5 櫻井 直樹 赤坂 5 21 5 16 5 7 44
6 八木 英一 佐原 8 18 3 23 41
7 浜田 優 個人会員 3 23 6 15 38
8 毛利 勇男 個人会員 4 22 12 14 36
9 須永 博明 浦和 3 13 5 21 34
9 山本 豊 小見川 4 22 4 12 34
11 原田 雄一 静岡静水会 2 14 7 19 33
12 篠塚 清 岩井 3 23 2 9 32
13 小川 明仁 佐原 6 20 5 11 31
14 橋本 幸一 7 19 1 10 29
14 北條 俊介 富士 7 9 6 20 29
16 岩本 正一 青空一竿 5 21 1 5 26
16 大川 博和 青空一竿 5 21 1 5 26
18 柳町 盛男 あずま 1 25 25
18 熊木 正勝 浮藻 1 25 25
18 嶋田 秀勝 佐原 1 25 25
18 杉山 孝次 静岡静水会 1 25 25
18 一條 勉 松戸 1 25 25
18 新井 主衛 八街 5 21 2 4 25
18 永井 均 両毛 1 25 25
25 藤田 恒雄 いわき 2 24 24
25 高原 良貴 富士 2 24 24
25 林 正樹 八街 2 24 24
25 長谷川 英明 両毛 2 24 24
 種市 俊昭(池上)と斉藤 宏一(彩倶楽部)が9点差で迎えた最終戦の農水杯。共に得点できず、種市のAOYが決定。その間隙を縫って西宮 清(赤坂)が6着20点を獲得、2位に浮上。
 「名前がない」「順位が違う」「この大会でも点数を獲っているはず」があるかと思います。
 その場合は至急、広報部・吉本までお知らせください。

支部の部 最終成績
順位 支部名 点数
1 赤坂 131
2 佐原 115
3 彩倶楽部 101
4 青空一竿 98
5 静岡静水会 94
6 あずま 86
7 八街 76
8 浦和 72
9 池上 71
10 69
 西宮清、櫻井直樹が大量点を叩き出し、赤坂支部が初の支部AOYとなる。
 「我が支部は更なる点数を獲っているはず」があるかと思います。
 その場合は至急、広報部・吉本までお知らせください。



      地区の部第1位の筑後川支部の後藤 魚真


地区の部 最終成績
順位 氏 名 所属支部 地区懇親釣会 地区大会 支部長懇親釣会 個人ベストスリー戦 団体トーナメント 合計
順位 得点 順位 得点 順位 得点 順位 得点 順位 得点
1 後藤 魚真 筑後川 1 15 1 5 1 15 8 3 38
2 小野澤 誠 長岡 9 7 1 15 1 5 3 10 37
3 源中 丈晴 名古屋絆 2 14 2 4 1 15 33
4 宮田 猛 甲斐 2 14 1 5 2 12 31
4 長澤 竜治 福島一竿 5 11 1 5 3 10 3 5 31
6 石川 博巳 岩手盛岡 1 15 1 5 3 10 30
7 大町 長夫 仙台まこも 3 13 1 15 28
8 神田 晴人 甲斐 1 15 3 10 11 2 27
8 石川 泰大 上越 3 13 2 14 27
10 赤堀 健 静岡静水会 6 10 3 10 2 6 26
10 原田 雄一 静岡静水会 1 15 1 5 2 6 26
10 坂田 裕幸 新発田 8 8 2 14 2 4 26
13 斉藤 志津夫 福島一竿 11 5 1 15 3 5 25
14 高野 一 甲府 7 9 1 15 24
15 保坂 常雄 秋田中央 3 13 3 10 23
16 太田 雅晃 青森 1 15 1 7 22
16 青野 浩 静岡静水会 4 12 2 4 2 6 22
18 清水 資郎 宮城阿武隈 4 12 1 5 4 4 21
18 浅沼 英夫 山形飛びぬけ 2 14 1 5 10 2 21
20 佐々木 満 秋田雄湯郷 1 5 1 15 20
20 浅場 紀人 静岡静水会 2 14 2 6 20
20 金山 敬 長野中央 1 15 1 5 20
20 柄沢 郁男 福島一竿 1 15 3 5 20
20 岩淵 武 水沢中央 1 5 1 15 20
25 田中 顕逸 青森 2 12 1 7 19
25 山本 薫 上越 1 15 5 4 19
27 藤田 恒雄 いわき 2 14 2 4 18
27 松浦 勝信 福島一竿 3 13 3 5 18
27 北條 俊介 富士 3 13 1 5 18
 後藤魚真(筑後川)が念願のAOYの座に就く。11月19日(日)に青森地区の支部長懇親釣会が開催され、これにて令和5年度のAOY競技は終了。
 「名前がない」「順位が違う」「この大会でも点数を獲っているはず」があるかと思います。
 その場合は至急、広報部・吉本までお知らせください。
 
シリーズ「この人に聞く」第94〜95回
精進湖漁業協同組合 組合長 渡辺秀夫氏


精進湖の釣りを守る
渡辺 秀夫氏





精進湖の釣りを開拓した
鈴木 魚心





昭和40年代半ば
精進湖は釣れなかった





 昭和47年 全放協誕生
昭和48年2月25日
全放協による精進湖への放流





故・小池忠教も愛した
ニューあかいけの朝食
厚切りトースト





ボートへ届くカツ丼





ボートへ届く生姜焼弁当





親子丼





看板メニュー ほうとう





スパゲティナポリタン





天然記念物 精進の大スギ





コタツ左端から富士山を望む
 山上湖へら鮒釣り発祥の地、精進湖。富士山を眺めながら釣り、やがては富士山を望む「はねうきの碑」に祀られる。その精進湖の釣りを守ってくださる渡辺秀夫氏(レストラン+舟宿、ニューあかいけ)にお話を伺います。
(令和4年7〜8月発行 日研ニュース612〜613号から 聞き手:広報部 吉本亜土)

本誌 お世話になっています。舟へ届くお弁当、何時も楽しみにしています。まず、お生まれは?
渡辺 昭和20年。小池忠教さん(註 令和4年11月9日逝去)と同じ歳。此の土地で生まれました。
本誌 発祥当時の精進湖をご存じなのですね!是非、其の頃の様子をお聞かせください。
渡辺 全て陸釣り。ボートは石川文明さんの「釣りの家」が5〜6隻持っていただけで、専ら移動に使われていました。
本誌 昭和20年生まれと云えば、かの鈴木魚心(明治41年〜平成元年)が家族を連れて精進湖へ移住したのが昭和19年。渡辺少年は氏と時代を共にしていますね。
渡辺 共にするどころか、小学4年から魚心さんにへら鮒釣りを習ってました。
本誌 おお!
渡辺 現在のマウントホテルの裏に住んでいた。地元の人たちからは「竿の穂先を水に突っ込んで釣る」変なおじさんに見えたそうです。都会人ということで誤解され、合わない面があったかもしれない。けれど、本当は親切なおじさん。私は仲良しでした。下の子が私と同じ歳で、家へ遊びに行ったこともあります。お仕事は毛バリ作り。
本誌 羨ましい!そうです。氏はへら鮒に留まらず、若い頃からアユや渓流の世界でも名人として聞こえ 「魚心毛バリは一大ブランドだった」と、平井魚葉さん(日研創立時の理事の中で唯一の存命者。特別会員、若竹)が教えてくださいました。
渡辺 そして、私の方が釣ると「秀ちゃんに負けちゃったなあ」とニコニコしていた。
本誌 ただただ羨ましい。エサは?
渡辺 ジャガイモ。
本誌 やはりそうでしたか。平井さんも…土地や気候が合わないのか、精進湖にはサツマイモが殆どなかった。東京で買った上等なサツマイモを担いでいくと、魚心さんが「此れをへらにやるなんて勿体ない。うちのジャガイモで十分だよ」。結局、魚心家の子ども達に食べられてしまった。そう語っておられます。釣り場は?
渡辺 今思うとコタツの辺り。
本誌 ボート釣りのなかった当時、歩いて行ったのですよね。
渡辺 そうです。店の前から坂を下り、溶岩地帯をコタツまで歩きました。
本誌 やがて精進湖の人気が上がり、貸切バスが押し寄せ、先輩たちは「夜中にポイントを目指した」と聞きます。
渡辺 そのとおり。夜中の2時に着くなり、道具を背負い、懐中電灯を頼りにコタツへ、更に奥へと向かう。
本誌 驚きました。
渡辺 当時は現在のような舟着けロープを張ってないでしょ。「突端に入った人が勝ち」だから、場所取り合戦は織烈でした
本誌 溶岩の穴に落ちたら大径我でしょ。
渡辺 獣道みたいなところにペンキで目印を付けてあったとはいえ、事故がなかったのが不思議。
本誌 大割まで歩いたのですか?
渡辺 そう、反対側からだと間に中の湖があって大回りになるため、赤池の方が近いのです。実は…最初は現在の海大和田の大割を大割、現在の大割ロープと小割ロープの間を小割と呼んでました。ところが何故か、富士吉田で共同通信の通信員をしていた安部井意竿さんが、島の大割を大割へ変え、それが一般的になってしまった。


本誌 初めて知りました!ところで、当時は渡し舟もあったと聞きます。
渡辺 そうです。私の父親たちが最大10人ほど乗れる渡し舟を運航していました。
本誌 甲府へ抜ける湖岸道路が出来た後、昭和30年代の地図を見ても、赤池−村浜−山田ワンド−精進ホテル−赤池を結ぶ「モーター渡船路」が載ってますね。
渡辺 昭和20年代末に赤池−村浜を結ぶ湖岸道路が田来るまで、バスの到着に合わせて村浜への渡し舟が出ていました。但し、明るくなってから。加えて溶岩地帯のポイントへ寄らない。だから歩いたのです。
本誌 確かに、ポイントへ寄らなくては釣りに使えません。
渡辺 云わばハイヤーもありました。釣り人のリクエストに応えて宿から島へ渡す。殊に精進ホテルに泊まるのは上等なお客でした(註:国道139号線から時計回りに精進湖へ入る道、宇の岬トンネルの真上に位置する。精進湖の風景に魅せられたイギリス人、ハリー・スチュワート・ホイットウォーズが明治28年に開業。明治末から昭和にかけて日本有数の避暑地「ジャパン・ショージ」のクラッシックホテルとして富裕層・外国人に愛された。上野精養軒が経営していたが、平成20年、富士急行に売却される。リニューアルオープンの予定もあったと思われるが、現在も閉鎖中)。
本誌 ポイント名「ホテル下」として残っていますね。大先輩から「精進ホテルは別世界。素敵な女性と泊まり、魚を掛けると彼女がバルコニーから手を振ってくれる。これが男子 の夢だった」と聞きました。
渡辺 有名な釣り師でいましたよ。名前は秘密。
本誌 ところで、渡辺家の御仕事は?
渡辺 当時は小さな売店。観光客相手の店としてはウチが一番古いんじゃないかな。ジュースやお土産を売る程度だったけど、結構来てくれました。
本誌 昭和37年の地図に「赤池茶屋」として載ってますね。お土産はどのようなものを?
渡辺 富士山の溶岩に似た形の溶岩糖、生のブドウを砂糖蜜でコーテイングした月の雫。今も人気商品です。
本誌 昭和20年代、精進湖の様子は如何でしたか?
渡辺 ひっそりした自然のままの湖。釣りに行っても水筒は要らない。そのまま掬って飲んでました。
本誌 素晴らしい!皆、其のひっそりした目然に魅かれたのでしょう。とはいえ、自然を愛するだけでは生活できません。産業は?
渡辺 多くはマキ作りや炭焼の林業。交通は富士吉田から舗装されていない凸凹道を走る朝タのバスがあるだけ。 けれど、十分楽しかった。」
本誌 学校は何処に?
渡辺 現在の村浜荘の奥、天然記念物「精進の大スギ」の根元に小学校・中学校がありました。
本誌 通学は?湖岸道路のない頃ですよね。
渡辺、山の中腹に道がついてました。赤池からは大回りで40〜50分掛かり、途中でタヌキやキツネが出ました。


本誌 ところで子供の頃、日々の食事は如何でしたか?
渡辺 田圃のない土地で、主食は米と麦と半々。自宅では味喰や醤油豆(大豆を原料とした発酵食品。云わば粘らない納豆)を作ってました。現在も、店の看板メニュー「ほうとう(平たいうどん。山梨の郷土食)」の味喰は自家製です。
本誌 オカズは?
渡辺 家で野菜を作っていたけど、専ら行商人から購入。
本誌 昭和20年代、どのような行商が来たのですか?興味があります。
渡辺 自給自足に近い生活だけど、売店の売上で行商から米・麦や魚を買ってました。イカ、サンマ、クジラ、イルカ。クジラはバタ焼や竜田揚げ。イルカは大根やゴボウと煮る。
本誌 伊豆半島から静岡に掛けてイルカを食べる習慣があります。山梨でも食用にするのですね。
渡辺 反物や着物、あんこの入った大きな鰻頭、キャンデーも行商から買ってました。
本誌 玉子や肉は?:、
渡辺 玉子はニワントリを飼っていたので、毎日食べていた。玉子掛け御飯で育ったようなものです。
本誌 潰して肉を食べることは?
渡辺 その記憶はありません。肉は父が鉄砲を持っていたので、キジ、ヤマドリ、シカ、ノウサギ、時にはクマが食膳に上りました。おかげで山道でクマに出会うことなく、安心
して学校へ通えたのです。
本誌 ところで、漁業組合の名前から「川漁師」のイメージが浮かびます。精進湖において漁は行われているのですか?
渡辺 私が中学生の頃まで、すなわち昭和30年代初めまで魚を獲ってました。
本誌 どのような魚を?
渡辺 当時、マブナが沢山いたのです。ウナギも川海老もいて、どれも美味しかった。
本誌 マブナの漁法は?
渡辺 釣りです。エサはミミズ。釣り場は浮島の裏、端山下などの道路下、精進ホテル下のワンド。祖父が竹の延べ竿で一日やって5〜6匹というところ。乗っ込みの頃は投網も使いました。
本誌 底は溶岩でしょ。網が引っかかりませんか?
渡辺 地元で「たきる」と呼ぶ乗っ込みの頃は、砂利や砂の浅場へ来るので大丈夫。
本誌 獲ったマブナは?
渡辺 大豆と味噌で煮込み、家のオカズにしてました。
本誌 漁業組合なのに、市場へ出荷しないのですか?
渡辺 したことはありません。量的にも知れてるし…。そう、正式名称は漁業組合だけど、此処での呼び名は「漁業会」。組合員は昔から湖畔に住んでいる人。舟宿に限らず、山田屋ホテルもレークホテルも組合員として漁業権を持っています。
本誌 なるほど。事実上は精進湖の管理組合ですね。
渡辺 そのとおり。
本誌 現在も漁は行われているのですか?
渡辺 やっていません。昔はへら鮒を釣っていてマブナが来た。場所によってはマブナばかりだった。今はマブナを見ません。食べ尽くされたんじゃないかな。更にバスやブルーギルが入って、生態系が変わりました。
本誌 すると、湖の管理、入漁料の徴収、そして放流がお仕事ですか?
渡辺 そうです。昔は村人が交替で、陸釣の人から入漁料を頂いてました。その一部を元に「村の魚釣り大会」が開催され、量目だけでなく長寸もあった。ウナギを釣れば大型賞。
本誌 愉快ですね!とはいえ、精進湖は海と繋がっていない。川もない。ウナギは何処から来たのでしょう。
渡辺 ウナギは何故か昔から居ました。昔放流した稚魚が育った「一代限り」だと思います。そう、精進湖の水源は雨だけ。大雨が降ると山から水が出て川が出来る。だから、湖だけど、山梨県の管理する二級河川です。
本誌 西湖、精進湖、本栖湖が繋がっているのは有名ですね。
渡辺 古代の?の海(せのうみ)が富士山から噴火した溶岩で埋まって3つに分かれました(註 紀元前に存在した巨大な古?の海に富士山からの溶岩が流れ込んで本栖湖と?の海を分ける。更に平安時代の貞観6年=864年、富士山が再び大噴火。その溶岩が?の海に流れ込んで西湖と精進湖が生まれた)。今も西湖の水を落とすと、精進湖や本栖湖の水も減ります。


本誌 現在の放流は?
渡辺 コイ、ウナギ、オイカワ(ヤマベ)が指定魚種。コイは5pほどのを5キロ、ウナギも箸ほどのを5キロ。オイカワは放流せず、村浜の浜をスコップで掘って砂利を撒き、産卵床を作ってます。
本誌 マブナが消えた一方、コイは隆盛を誇ってますね。へら鮒を釣るボートの周りに、必ず大型が3〜4匹付いている。正直、迷惑でしかありません。
渡辺 昔、村浜にあった養殖イケスから逃げ出したコイです。
本誌 イケス周りは名ポイントだったと聞きます。
渡辺 そうです。村の人4〜5人が水面に竹の枠を組み、大きな網を張り、育てたコイを売って生活していた。
本誌 撤去から50年ほど経つのではありませんか?少なくとも、私が日研に入った昭和55年にはなかったように思います。
渡辺 イケスへ撒くエサにへら鮒が集まってポイントが偏るため、日研理事長を務めた佐藤紫舟さんからイケス撤去をお願いされたりもしたけど、なにしろ村の人がやっているだけに、強くは言えなかった。
本誌 それはそうでしょう。
渡辺 しかし、イケスをやっていた人が亡くなった後、引き継ぐ人はなく、湖面から姿を消しました。
本誌 家族の生活を支えるだけの商売にはならなかったのでしょう。
渡辺 とはいえ、水が良いので精進湖のコイは美味しい。殊に洗いにすると抜群。かつては民宿の名物で…今もコイを釣ってきた人に洗いで出すと「もっとないかもっとないか」と言われる。何時でも料理してあげますよ。
本誌 何時でも簡単に釣れそうです。
渡辺 ボート周りのサイズなら、洗いが30〜40人前は取れるかな。但し、指をしゃぶるほど慣れてるけど、いざ釣ろうと太い糸に大きなハリをぶら下げると、糸を見切って食わない。だから今まで無事に過ごしてきたのでしょう。
本誌 なるほど。
渡辺 そもそも、見えるコイは竿を持ってったりしません。悪さするのは、その下にいる見えないコイです。
本誌 さて、へら鮒の放流は?
渡辺 マブナ釣りのミミズに時々掛かってきたけど、大釣りはありませんでした。
本誌 そもそも、昭和40年代の精進湖は釣れなかったようです。当時の日研ニュースを見ると「水溜まり」とまで言われてる。
渡辺 元々「1貫目(3.75キロ)釣れればバンザイ」の湖だったところに、野べらを釣り尽くしてしまったのでしょう。しかも、其の頃は水質が悪かった。
本誌 鈴木魚心の頃は「湖の水を掬って飲んでいた」のに?
渡辺 観光客が増えたにも関わらず、下水道の整備が遅れ、生活排水は「湖へ垂れ流し」だったのです。
本誌 へら鮒釣りの一番の名ポイントは豚小屋下。下水の入る場所には魚が集まるとはいえ、其れが行き過ぎたのですね。当時はゴミを捨てるのも当たり前だったようで、精進湖湖底清掃の折、古い皿や茶碗が沢山出てきました。
渡辺 精進湖の水が復活したのは、正に下水道のおかげ。
本誌 昭和40年代、釣れない状況は何処も同じで…その危機感から、昭和47年、全日本へら鮒放流協議会(全放協)が生まれました。
渡辺 精進湖にも日研、全放協、漁協の三者で放流を始めました。さて、へら鮒が浜へ乗っ込んでくる。当然のように組合員が獲る。日研から「私たちが放した魚を獲るのか」とクレームが来る。一方、組合員は「昔から居た魚を獲ってるだけ」と主張する。なかなか大変でした。
本誌 その後の継続的放流が実り、一時は「平日例会なら50〜60キロ、日曜例会でも20キロ」の世界となりました。最近は「平日例会でも20キロ台」に戻っていて、しかも大型魚ばかりで…将来が心配でなりません。
渡辺 放流魚が釣れてこない。
本誌 カワウによる食害でしょうか。彼らは1羽2羽で来ることが多く、大群は見かけませんが。
渡辺 ほんと、放流魚は何処へ行ってるのだろう?


本誌 漁業組合としてのカワウ駆除は?
渡辺 「放流した魚を護る」という正当な理由があるため、カワウを獲っても良いことになっています。けれど獲る方法がない。山では散弾銃を撃てるけど、湖水の上は銃猟禁止なんです。その気になれば、山へカワウを追っ払って山で撃てばよいけど、湖岸道路の交通止めが必要になるため、警察が許可しないでしょう。
本誌 カワウが天下の珍味なら、ジビエとして賞味され、数も減るのでしょうけど…。
渡辺 私、食べたことがあります。
本誌 え!不味いと聞きますよ。「食べて不味いのは、生き物が身を守る手段の一つ」と云われる。
渡辺 確かに、硬くてパサパサしてる。脂気もない。それでも、唐揚にしたら大丈夫だった。食べて食べられないことはありません。
本誌 カワウによる食害が問題になる一方、ワカサギはよく釣れてます。
渡辺 そうそう、ワカサギも放流しています。昔は諏訪湖や芦ノ湖、遠くは北海道から卵を買ってました。今は産卵技術に優れた河口湖産。ふじみ荘の故・渡辺袈裟一さんが組合長の時代にガラスの筒になった孵化機を導入。此れが優れモノで、孵化率も生存率も上がりました。
本誌 ガラス管を繋げた装置ですね。九州の北山ダムで見ました。
渡辺 水が詰まったガラス管の中を、ワカサギの卵が回っていく。卵から孵り、魚体に目も出ると、パイプを通って湖へ流れ出す。此の冬も1千匹越えの釣果が何人も出ました。
本誌 では、現在入漁料が発生するのは…コイ、へら鮒、ワカサギですね。バスは?へら鮒を釣っているとバサーの舟をよく見掛けますが。
渡辺 入漁料は頂いていません。
本誌 え!
渡辺 組合として放流していないから。そして、放流するわけにもいかない。
本誌 ナルホド。
渡辺 バスは昔ほど釣れません。一日やって精々5本とか。オデコも出ちゃう。
本誌 再放流しても魚体は傷むし、やがて寿命が尽きるのでしょう。
渡辺 なにより、ブルーギルがバスの卵を食べる。だからバスは増えません。
本誌 ワカサギの1千匹越えには驚きました。
渡辺 ワカサギはバスに食べられる以上に「沢山いる」のでしょう。なにより、ワカサギは水温が下がる、すなわちバスやブルーギルが大人しく湖底に沈んでいる時が盛ん。しかも水質向上のおかげで近年藻が復活し、ワカサギの隠れ家となっていることも大きいと思います。
本誌 そうだ、昔は氷の上でワカサギの穴釣りを楽しみました。現在は如何ですか?
渡辺 かつては大勢の人が押し寄せ、道路に勝手に車を停めて大渋滞が発生。「精進湖一周に2時間掛かった」
という話があります。
本誌 先ほど話の出た渡辺袈裟一さんが「当時は熱燗にするワンカップが箱ごと減っていった」と仰ってました。
渡辺 ウチも同じ。氷の上に衝立を立てて風避けとし、熱燗を届けていた。店中の酒がカラになるほどの勢いでした。
本誌 今は?地球温暖化のため凍らないのですか?
渡辺 いや、今も同じく15pほど凍ります。けれど当時と異なり、事故の危険を重く見て、警察と消防が氷に上がらせない。
本誌 だからドーム船が生まれたのですか!
渡辺 そのとおり。ドーム船の係留場所へ、浜から氷を割りつつモーターボートで送る。周囲の氷も割って釣り場を作る。同じ道を通ってボートを漕ぎ、へら鮒ロープに縛って釣ることも出来るけど、マイナス15度は寒くて辛い。一度ドーム船を経験すると、ボートへは戻りません。
本誌 ナルホド。ところで、ワカサギ釣りにへら鮒が掛かってくることは?
渡辺 昔はありました。けれど今は釣れない。ほんと、放流べらはカワウの来ない深場でじっとしているのか?それとも全て食べられてしまったのか?心配でなりません。


本誌 さて、ニューあかいけと云えば、御弁当の美味しさで有名です。私、コンビニで食べ物を買わず「舟宿にお金を落とす」のがマナーだと思ってる。そして、ニューあかいけは其れに応えてくださる。
渡辺 ありがとうございます。
本誌 加えて、ニューあかいけは頼もしい後継ぎに恵まれています。渡辺純一、元、スーパーバンタム級の日本チャンピオン。
渡辺 高校卒業後、新宿の調理師専門学校へ進み、その近くにジムがあり、見ている内に「面白そうだ」と入門し、日本チャンピオンまで行きました。
本誌 料理の腕、ボクシングの腕。全く異なる両面に才能があったのですね。とても気持のよい方で、お話する度「本当に強い人は優しい人なんだ」と感じます。
渡辺 ありがとうございます。
本誌 最後に日研会員へのメッセージを。
渡辺 是非、精進湖へいらしてください。
本誌 それに尽きますね。ニューあかいけに限らず、舟宿へ行くことが放流を守り、放流が養魚業者を守り、それがへら鮒釣りを守ることに繋がる。此れからも宜しくお願い申し上げます。




水之趣味・昭和27年5月号に鈴木魚心が記した釣り場地図
甲府へ抜ける湖岸道路がない。天神も村浜もポイントとして認識されていない。




昭和37年刊行「へらぶな釣り百科」に鈴木魚心が記した釣り場地図
現在の「中の湖」が当時は「中の湖入口」と呼ばれていた。(平井魚葉氏提供)
 
日研と放流
   放流事業は日研の柱である。「へら鮒釣りの柱」と言っても宜しい。その一方、一部マスメディアは放流に対して偏見の目を向けている。未だに「日研と全放協は放流バッジの売上を着服している」「放流バッジの売上の一部は管理池への放流に充てられる」と誤解する人さえいる。
 私たちの活動を分かりやすく解説し、正しく理解いただくための努力は常に欠かせない。この度「へら専科」2月号および3月号に、遠藤理事長が「日研と放流」について記す機会を頂いた。更に同編集部のご厚意により、日研ニュースおよび日研HPへの転載までお許しいただいた。深く感謝申し上げます。

様々な外来種
 昨今、偏狭な視野しか持たないTVなどのマスメディアが、本来存在しない生物を自然環境下に拡散させることを「DNA汚染」、更には「環境破壊」と主張し、必要以上に大騒ぎしています。
 しかし、多くの学者が指摘しているとおり、人類は意識的に、また多くは物流などの過程で意図せずに、大量の生物を世界中に撒き散らしてきました。生物体のサイズこそ異なりますが、新型コロナウィルス騒動も其の一つですね。
 例えば、皆さんが今日食べたランチを思い出してください。米も小麦も多くの野菜も、外来種を改良したものです。肉も魚も同じ。純国産の食物は稀有と云ってよいでしょう。そしてデザートのサツマイモの原産国は中南米、リンゴはアジア西部が起源とネットで調べることができます。

 貴方が可愛がっているペットはどうでしょう。日本原産と思われる柴犬や秋田犬も、DNA調査の結果「縄文人が南方から連れてきたイヌに、朝鮮半島経由やってきた弥生人や古墳時代人がもたらした新しいイヌが混血した」と考えられるようになりました。そして現在、柴犬や秋田犬が海外でも人気を得ることで、其のDNAは世界へと拡散しつつあります。 
 天然記念物の中にさえ「外来種がある」ことも知っておいて良いでしょう。福岡県や佐賀県に生息するカササギは16世紀後半、豊臣秀吉の朝鮮出兵の折、朝鮮半島から持ち帰られたもの。埼玉県の県鳥であるシラコバトも「江戸時代中期、中国大陸から飼い鳥や鷹狩の獲物として移入され関東地方に定着した」という説が有力です。

ヘラブナと放流
 さて、ヘラブナの放流です。心ないTV番組で「ヘラブナは国内外来種だから居てはいけない魚です。だから駆除します」と喧伝され、我々日研も相応な(相当な?)批判を浴びました。それは我々が多くのヘラブナを全国各地の内水面に放流しているからです。

 しかし、淡水魚として全国各地に放流が行われている他の魚種、アユ、ワカサギ、ヒメマス、ヤマメ、コイなどと基本的に同じように、ヘラブナが国内放流場所の生態系を大きく変化させることは指摘されていません。
そもそも類似の魚種であるギンブナ類(フナ類)も過去の放流の影響なのか?全国どこにも生息しており、やれヘラだ半ベラだマブだと騒いでいるのは私たちヘラ釣り人くらいでしょう。そして最近、我々高年齢ヘラ釣り人の心の故郷「横利根川」において、以前から居た外来魚、レンギョ、ブラックバス、ブルーギル、タイリクバラタナゴ、アメリカナマズなどを凌駕して釣れてくるのがダントウボウです。常に生態系が変遷していることを実感できます。ですから、とは申しませんが、成魚放流を継続しなければヘラブナの野釣り場は衰退を避けえないのです。

放流を見ながら
 そして今年(令和4年)も、全国各地への放流が行われました。ヘラブナ釣り発祥の地「佐原向地」においても11月12日(土)、大阪から3トンのヘラブナがトラック2台で横利根川畔の中島屋駐車場へ到着。日研および全放協(全日本へら鮒放流協議会)による検魚(魚の寸法と重量の確認)が行われた後、新利根川、上の島新川、横利根川、小見川、黒部川などへ放されました。
 はるばる旅をしてきた魚が水面へ散っていく姿を見る度、胸が熱くなりますね。「沢山釣れて私たちを喜ばせて欲しい」と願う気持ち、「釣られずに大きく育って欲しい」と願う気持ち。矛盾しているけれど、どちらも本当です。

放流に関するQ&A
 ヘラブナ釣りの存続に欠かせないのが放流です。しかし、放流について未だに誤解が絶えない。代表的なものが「日研と全放協は放流バッジを定価より高く売って、差額を着服ている」「放流バッジの売上の一部は管理釣り場への放流に使われている」でしょう。
 へら専科に頂いた機会を利用し、「ヘラブナの放流」についてQ&Aの形で解説したいと思います。

Q1 ヘラブナの放流はなぜ大切なのですか?
A ヘラブナ釣りを楽しむため。これに尽きます。

 自然環境が豊かな時代は野ベラで十分でした。昭和18年、大阪の土肥伸がヘラブナの満ち溢れる水郷へ移住。横利根の川脇(第二大曲の上流)に居を構え、関東におけるヘラブナ釣りの祖となったほどです。
 しかし、戦後の食糧不足に伴う干拓事業、高度成長下の河川改修や護岸工事、水質の悪化、そして卵や幼魚を襲う外来魚の侵入により、各地で健全な繁殖環境が失われてしまいました。かつての名釣り場、福島県の喜多方川前や北陸の木場潟・柴山潟も往時の輝きはありません。
 現在、純粋な野ベラを相手に相当な釣果が上がるのは、九州の佐賀クリークくらいでしょうか。他にあれば、ぜひお教えください。ヘラブナ釣りは「放流された魚を釣る」遊びとなりました。放流事業は日研の柱。日研は放流を通じてヘラブナ釣りを守っています。

Q2 ヘラブナはどのようにして生まれたのですか?
A 明治末期〜大正初期、関西の淡水魚養魚家の手によって生まれました。

 関西の淡水魚養魚家によって琵琶湖原産のゲンゴロウブナの改良が進み、短期間で育ち、食味(しょくみ)にも優れたカワチブナの生産が始まりました。ヘラブナの誕生です。

Q3 ヘラブナの放流は何時頃、どのように始まったのですか?
A 当時の水産関係者は「将来のタンパク質供給源」としてヘラブナに白羽の矢を立て、全国各地への移植を開始しました。

 大正中期〜昭和初期に群馬県館林の城沼、茨城県霞ケ浦、富士五湖、遠くは北海道大沼にも国鉄の活魚車を利用して放流されたようです。
 なお、増田逸魚の名著・へら鮒三国志に「昭和10年、水郷史上最大の出水があり、小貝川と利根川の合流点から上流一帯にたまっていたヘラブナが拡散した」との記述があります。意図せざる放流ですが、これが戦後のヘラブナ釣り発展の基となったと考えてよいでしょう。
 なお、ダム湖には毒物などの流入を検知する目的で「完成時に魚を放流する」との話を聞いたことがあります。御母衣ダムや奥只見ダム(銀山湖)など秘境のダムでヘラブナが釣れるのは、そのためかもしれません。また、内水面の漁協が対象魚種としてフナを挙げている場合、義務放流の中にヘラブナが混ざっている可能性は高いです。

Q4 日研もヘラブナの増殖や放流に努めたのですか?
A 努めました。

 最初の放流は昭和28年2月。「練馬の金木養魚場で買った50キロを自家用車で運び、奥多摩湖へ放流した」ことが記録に残っています。
更に、昭和38年には養魚放流部を新設。同年5月に埼玉県水産試験場で孵化した青子5万匹を幸手市の高須賀に掘った池に放し、11月には5pほどに育った稚魚を佐原向地へ放流しました。
 この試みは3年間続きました。しかし、釣り人から「食欲旺盛な稚魚がハリ掛かりして釣りの効率が悪くなる」との声が出たため、昭和41年、大阪の寝屋川水産試験場から分けてもらった成魚の放流へ切り替わりました。昭和45年、成魚の購入元は水産試験場から東大阪の養魚業者へと変わり、現在に至っています。昭和41〜45年に放流されたヘラブナの量は計21トンに及びました。

Q5 放流の成果はいかがでしたか?
A よく釣れたとは言えません。

 昭和40年代半ばにおける日研の大会の優勝記録を見ると、精進湖1.74キロ、三島湖2.30キロ、横利根川2.90キロ。そして、各支部の年間優勝が15キロ前後。せっかく大会に参加しても多くがオデコ、釣れても1〜2枚だったのです。
 さすがに「このままではマズイ」となり、昭和47年、ヘラブナを放流し、釣り場を守る組織として全放協(全日本へら鮒放流協議会)が生まれました。
 しかし、当初は成魚を運ぶ技術が確立されていませんでした。水温や酸素の管理、輸送前に魚を締める(数日間エサを与えずにおく。その結果、輸送中の糞による水の汚染を防ぎ、放流後に活発に食うことが期待される)技術は、その後に生まれたものです。そのため、当初は現在のような「放流直後の荒食い」は珍しかったのです。
 更に、野田奈川や新八間川などで問題になった、漁業権を持つ地元の漁師が放流直後のヘラブナを網で獲ってしまうことさえありました。

Q6 放流予定表の中に「全放協」の3文字を見かけます。全放協とは何ですか?
A 釣り場とヘラブナを確保するために生まれた団体です。

 昭和47年初秋、全放協の理事会が開かれ「主だったヘラ釣り会の代表者を糾合し、釣り界ジャーナリスト立ち会いのもとに全へら鮒放流協議会を設立し、これを日研が全面的に支援する」という決議が行われました。
 初代会長は小林健二郎(昭和35〜40年・日研二代目理事長、昭和47〜
52年・日研六代目理事長)。日研以外の釣り会の協力を得るため、全放協=日研とすることを避けたのですね。 
 創立から2カ月の短期間で、日研会員を中心に800万円の寄付が集まりました。そして、創立から令和4年までの50年間に、全放協・日研の手により全国へ放流されたヘラブナの量は累計7300トンに及びます。なお、創立当時は全へら鮒放流協議会だったのが昭和50年、全日本へら鮒放流協議会へ名称変更されました。

Q7 同じく放流予定表の中に「委託」の2文字も見かけます。委託とは何ですか?
A 放流を委託することです。

 地元で釣り場を運営する行政、漁業組合、釣り団体、管理池、時には個人が「ヘラブナの代金および放流に関わる費用は負担するので、代わりに放流してください」と委託することです。
 全放協へ委託すれば全放協委託、日研へ委託すれば日研委託。放流予定表に管理池が載っているため、「放流バッジの売り上げで管理釣り場に放流するのか」とお叱りを受けることがありますが、このような理由によるものです。

Q8 全放協と日研の関係はどうなっているのですか?
A 一体化を考えています。

 昭和47年の創立当時、全放協には日研と別組織の釣り会から多くの参加がありました。アンチ日研の会、アンチの人々にも協力を求めるため「あえて日研を表に出さなかった」と言われています。現在も会計は別々です。
それから50年、当時加盟していた釣り会は多くが活動を停止し、現在は会長以下ほとんどが「全放協のメンバー=日研会員」となりました。
 放流事業が円滑かつ迅速に進むよう「全放協と日研の一体化」を考えています。

Q9 放流は誰が行っているのですか?
A 日研会員と地元の方々が協力して進めています。

 全放協のメンバー=ほぼ日研会員のため、各地の日研会員が地元の釣り会や池の愛好会の協力をいただきながら、ボランティアとして放流の任にあたっています。
 令和4年11月12日(土)の佐原向地でも、トラックからシューターを伸ばしたり、時に籠でリレーしてヘラブナを水面へ運ぶのは日研会員でした。

Q10 放流の原資はどうなっているのですか?
A 放流バッジだけではありません。

 委託にともなう委託者からの資金提供、放流協賛大会における舟宿からの放流資金寄贈、一般からの寄付、そして放流バッジの益金が原資です。

Q11 放流バッジとは何ですか?
A 釣り人の一人ひとりが放流を支えています。

 昭和47年、全放協は放流協賛バッジを1個1千円で販売開始。その益金で放流事業を推進することとなり、今に続いています。現在は効力を失いつつありますが、「放流バッジを見せると舟代が優遇される」釣り場が幾つかあります。
 そして、50年経った現在でも値段は1500円。諸物価の上昇を考えれば、安過ぎると言えるでしょう。複数個を購入くださると助かります。また「帽子にバッジをつける時代ではない。カード形式に変更してほしい」との声も寄せられています。

Q12 放流バッジを2000円で売っている地域があります。1500円が定価ではないのですか?
A 放流量を確保するためです。

 地域によってはヘラブナ釣り人口が少なく、1500円で販売した場合、業者が運んでくれるトン数に達しません。そのため定価を上回る価格で販売して必要資金を集め、トン数を確保しているのです。
 また、ある程度のヘラブナ釣り人口がいても、より多くの放流量を求めて2000円でお願いしている地域もあるでしょう。決して「誰かが差額の500円を懐に入れている」わけではなく、放流に役立っています。

Q13 放流にあたり、行政などの許可は取っていますか?
A ゲリラ放流は行いません。

 行政や漁業組合の委託で放流する場合、日研が許可を取る必要はないでしょう。委託でない場合は池の所有者、あるいは水面の管理者へ必ず伝えています。
もちろん、ゲリラ放流は行いません。決して違法な行為でも、「国内外来種を拡散している」と非難される行為でもないのです。

Q14 放流場所はどのように決まるのですか?
A 日研、全放協とも、理事会においてです。

 日研、全放協とも、理事会で「委託以外の放流場所」を決定しています。円滑な放流を行うため「これまで放流してきた水面に今年も放流」ということが多いですね。
 放流バッジをカード形式にして会員番号を振り、「インターネットを通じて多数決で放流場所を決めてはいかが?」との案も出ています。面白いと思いますが、完全な新場所への放流は許可の取得が難しいかもしれません。

Q15 「仲間で遊んでいる池に放流してほしい」は可能ですか?
A 個人所有の池なら簡単です。

 所有者のOKが取れれば、問題なく放流できます。行政や企業が所有する池の場合は、OKを取るまで面倒かもしれません。OKが取れれば、また日研、全放協として近隣への放流が予定されていれば、数量が少なくとも、同じ日に巡回放流できる可能性があります。
 それでも現在の魚単価および輸送費を考慮すると、最低ヘラブナ百キロ単位の資金(委託あるいは放流バッジ大量購入による資金+輸送費)が必要となります。放流にあたるボランティアも必要です。

Q16 1回の放流で何トンくらい運ばれてくるのですか?
A 最大4トン程度は輸送可能と考えています。

 日研、全放協の場合は基本、ヘラブナは大阪の東大阪市や和泉市および貝塚市の養魚場からトラックで運ばれ、最大4トン程度は輸送可能と考えています。そしてヘラブナの代金、輸送費、輸送にあたる人の人件費を勘案して「1回の放流で最低1トンは発注する」ことが求められます。
 また、その他の供給地域として香川県中部、茨城県の霞ケ浦周辺などもあり、供給地域から放流場所までの地理的関係で最小、最大の発注量が変わってきます。なお、最低1トンの壁があるため、放流バッジの売り上げや寄付などを元にした放流資金が集まらない地域では、資金がたまるのを待って「2年に一度の隔年放流」となることもあります。

Q17 放流のヘラブナと野ベラは違うのですか?
A 「エサによって形が変わる」と言われています。

 高カロリーのエサを与えると、脂肪が肩にたまって「肩の張った放流ベラ」に育つ。一方、自然食で過ごすと「スリムな野ベラ」となる。放
流されて時間が経つと「徐々に痩せて野ベラの姿に近くなる」ような気がします。
 近年、霞ケ浦で人気の大型は「放流ベラがそのまま大きく育った」姿をしていますね。昔、あのようなヘラブナは釣れませんでした。全放協や日研が放したヘラブナが広大な霞ケ浦へ移動し、コイ養殖の網イケスからのこぼれエサで育ったのでしょうか?放流は目先の釣果だけにとどまらない。そう考えてみたいです。

Q18 大型ベラ、小型ベラ、放流するのはどちらが得ですか?
A 今後の研究課題です。
 
「小型を放流するとカワウの被害に遭う」と考え、大型を放流したくなります。一方、「大型は活躍できる期間が短い。時に神経質で口を使わない。カワウの被害に遭っても、小型を数入れて育てたほうがよい」との考えもあるでしょう。よく分かっていません。今後の研究課題です。



以上、ご理解いただけたでしょうか。ヘラブナ釣りを後世へ伝えるため、これからも日研、全放協の放流事業をご支援くださるよう、よろしくお願い申し上げす。




 令和4年、一般社団法人・日本釣用品工業会が主体となって推進する、持続可能な釣り環境を構築するための「LOVE BLUE〜地球の未来を〜」事業の一環として、同会より全放協を通じて日研の各地区へ放流資金の御寄付を頂きました。心より感謝申し上げます。


   
シリーズ「この人に聞く」第90回 
紀州製竿組合 組合長(令和3年時)米田 護氏(瑞雲)
 


米田 護(瑞雲)氏




竿掛け・玉の柄も人気




作業場にて
寿るす美(裏川 修治)氏





寿るす美
接着されて合わせ穂になる

 和歌山県の高野山麓は「へら竿」の産地として知られる。松本茂氏(若竹支部)の活躍もあり、平成25年3月、紀州へら竿は国の伝統的工芸品に指定された。此の指定を得るためには…生活に豊かさと潤いを与え、主要部分が機械ではなく職人の手になり、100年以上前から今日まで続く伝統的な技術・技法・材料で作られ、一定地域においてある程度の制作規模が形成されていることが大切。紀州へら竿こそ「全てに合致する」と云えよう。
 令和3年2月には、南海電車・紀伊清水駅のー角に火入れや穂先削りを体験できる「匠工房」も誕生した。その工房において、紀州製竿組合の組合長(令和3年時)を勤める米田護氏(瑞雲)にお話を伺います。

(聞き手:広報部 吉本亜土、文中敬称略)
 令和3年10月発行 日研ニュースより

本誌 まず、お生まれは?
米田 昭和34年、此の紀伊清水で生まれ、竿師の先輩にあたる京楽、五郎、石水が同じ町内会。子供の頃は御飯粒をエサに、近所の池で魚釣りしてました。
本誌 渡辺紀行氏(日研十一代目理事長)の大著「紀州のへら竿師」を読むと、米田家一統の竿師たちが刈り取りの終わった田圃で竹を分けるシーンが印象的です。昭和61年の取材ですね。
米田 あの時は兄弟5名(魚酔、英竿師、古老竹、寿るす美、玲峰)、その子供たち3名(瑞雲、世志彦、春満)、兄弟5名の従兄弟にあたる雪舟の計9人で竹を分けました。
本誌 現在は?
米田 寿るす美、玲峰、世志彦、私の4名で分けてます。
誌 え!本によると瑞雲さんの父君、魚酔さんは大正14年でしょ。その弟さんが今なお現役ですか?
米田 農家だった祖父母には子供が13人いて、一番上と一番下が申歳。その差は2回りの24年。一番下の玲峰は昭和19年なんです。
本誌 24年間で子供13人。素晴らしい!その米田家が竿作りへ向かった理由は?
米田 一言で云えば、農家よりお金になったから。二番目の英竿師が真っ先に竿師となり、その稼ぎを見た4名が次々と同じ業界へ身を投じた。作れば売れる時代でした。
本誌 一方、瑞雲さんはいきなり竿師にならず、大学へ進学。
米田 そうです。ところが、20歳になった時「サラリーマンは毎朝同じ時間に出勤かあ。竿師は自由で良いなあ」と考えた。
本誌 分かります。私も42年間やったけど、通勤電車は辛い。
米田 大学を2年で中退して、昭和54年、叔父の寿るす美に入門。
本誌 お父様はなんと仰いました?
米田 「止めろ」と言った。家のローンを払ってる最中で働き詰めだったうえ、将来を見ていたのかもしれません。
本誌 けれど、昭和50年代半ばと云えば、日研の会員が1万人を超え、竹竿も売れた時代でしょ。晴海のフイッシングショーは竹竿の展示で賑わい、後楽園に開業した上州屋の大規模へら鮒専門店に竹竿が並び、へら鮒には「ときわ」の盛大な広告が載っていた。広告の中では五郎の紅葉握りが印象的でした。
米田 あの紅葉、父の盆栽の紅葉なんです。
本誌 え!
米田 握りに貼るには、山の紅葉だと大きすぎる。父が育てていた「清姫」という種類の葉っぱが丁度良いサイズでした。
本誌 五郎、魚光の兄弟が「最も売り上げた」と云われてますね。
米田 仕事が早く、数を作れたからです。けど「稼いで派手に」という感じはなかったな。今も魚光さんは健在。毎朝近所を散歩してます。
本誌 入門にあたり、寿るす美さんを親方に選んだ理由は?
米田 5人兄弟の中で最も尺単価が高かったから。竿にセンスを感じたから。
本誌 職人の評価は値段だと思います。正解でしょう。さて、竿師への道を選んで如何でした?
米田 サラリーマンと異なり「自分で全てをやらなくてはいけない」ことに気づいた。
本誌 サラリーマンは組織の歯車というけれど、歯車には「誰かが回してくれる」面もありますね。入門しての日々は如何でした?
米田 穂先削りと火入れの練習から始まりました。親方が生地組みした竹に矯め木を当て、ぶっつけ本番で火入れする。
本誌 え!製品になる竿をイキナリ火入れ!
米田 言われたのは「焦がしたらダメだよ」だけ。焦がさなければ、やり直しが効くんです。子供の頃から家で見ていて、やり方は知ってました。火を当てると竹が飴のように変化する。竹の表面に浮いてきた油を拭く。今は何故か、昔ほど油が浮かない。生態系の変化かな。
(註)広報子は此処で火入れを体験させていただきました。へら竿は穂先=真竹、穂持=高野竹、三番〜元=矢竹からなり、その矢竹の火入れです。真っ先に言ったのは「此の竹、真っすぐじゃないですか」。そう、選別され、田圃で12月から3月まで干された竹は、思ったより遥かに真っすぐだったのです。
本誌 瑞雲さんの目から見れば、曲がっているのですね。それを微妙に調整していく。「容易じゃない」ことが分かります。
米田 本当なら竹は真っすぐに育つ。風や雪で曲がったのを元に戻してやるのが火入れ。そして、真っすぐにするだけではありません。竹を焼き入れすることでバネが生まれる。親方にも「きちんと火を入れるよう」教えられました。
本誌 そんな修行を何年間続けたのですか?
米田 20歳で入って2年で独立。怒られたのは、親方の持ち歌を先に歌ったのかなあ、カラオケの席での一度だけ。今も優しく親切な方です。
本誌 間屋さんは?
米田 親方と同じく西岡商店、魚谷商店など。親方や父の口添えもあったのでしょう。最初から買ってくださり、尺単価は4千円で…結果、サラリーマンが貰う給料より多かった。渡辺紀行さんから「高すぎる」と怒られました。
本誌 そんなことありません。職人にとっては値段こそが評価。私の師匠の加瀬ー夫(浅草へら鮒会、銀座へら鮒会で活躍。へら鮒誌でも健筆を振るう)はこう言ってました。竿師が竿の値段を上げる時、「漆などの材料が上がったから」と言い訳するのはみっともない。「オレの手間賃が上がった」と誇るべきである。
米田 父のおかげで材料も道具も家にあった。親方も近くにいて教えてくれる。恵まれたスタートでした。
本誌 ところで、兄弟の中で一番高い寿るす美と他の4人の竿。明らかな違いを感じましたか?
米田 見ただけじゃ分からない。
本誌 使ってみなければ分からないのですね。紀州のへら竿師を読むと「瑞雲は高品質の竿を作る志を立てた」とあります。竿における高品質とは何でしょう?
米田 平たく言えば、高く売れる竿。品質と信用の積み重ねが「値段に反映される」と云えるでしょう。
本誌 私もそう思います。
米田 品質と値段、だいたいー致してるかな。高ければ外れる確率は低い。安くても当たることがあるけど。
本誌 高くても外れますか!
米田 実は、作っていても分からない部分があるんです。雪で先端が折れていた竹、下の部分に穴が空いたりしていた竹を使うと曲がる。修理で直していきます。
本誌 穂持が曲がるでしょ。
米田 穂持の一節目がよく曲がったね。今は生地組みの技術が上がり、昔ほど曲がらない。竿は全体バランスが大切で、竹を選んで生地組みしながら、曲がらないように考えています。高野竹のどの部分を切って穂持に使うか。それだけでバランスは変わる。
本誌 穂先は如何ですか?
米田 太い真竹を割って削っていく。1本の竹の表と裏で真っすぐな良材が6本取れる。高い竿は其処しか使わない。そんなことも竿の値段に反映されます。
本誌 現在は魚が大きくなり、削り穂に代わって合わせ穂と聞きますが。
米田 真竹の下の部分を削り穂、上の部分を合わせ穂に使います。合わせ穂も大変な作業で…細く削った真竹4本を接着剤で合わせ、センターを大切に丸く削る。此れを仕入れた竿師が、同じくセンターを大切に削って穂先に仕上げる。機械があるとはいえ、均等に削るのは易しくありません。
本誌 現在、合わせ穂を作っているのは?
米田 寿るす美を筆頭に和人、楽勇心の3名。あと、五条に公務員を定年になった器用な人が居るけど、主力は此の3名。自分の仕事の傍ら、皆の仕事を支えてくれてます。
本誌 ところで、合わせ穂だけでなく、竿には変遷がありますね。私が中学の頃はへら竿=段巻だった。大人の使っている段巻が羨ましく、中学3年だったか、お小遣いを貯めて池袋西武の釣具売り場で尺3百円の丈1を買いました。その時の嬉しさ、今も覚えています。段巻の後は紋竹が出て、口巻が主流になって…今は?
米田 笛巻と逆段巻が人気かな。そう、かつては紋竹も一世を風摩しました。
本誌 加瀬一夫が「紋竹は作るんだよ」と言っていた。
米田 そのとおり。当時、何故かゴルフ場の横に多く…「除草剤を浴びると紋竹になる」と後で知りました。成長途中に浴びなくとも、刈った竹を除草剤に浸けておけば紋竹になる。
本誌 流行と云えば、握りも変わりましたね。カーボン竿と競争する中、竹竿にしか出来ないことを考え「凝ったものが出るようになった」と聞きます。
米田 使い勝手から云えば、綿糸が一番でしょう。使う人もそう言う。ところが作ると売れない。殊に関東で売れない。そのため、小店(釣具店)も「売れる握りにしてください」と言ってくる。此れが現実です。
本誌 結果、道具が工芸品になってしまった。床の間に置くようなものを野原で使う。作る側も大変と思います。
米田 竿は道具。だからこその綿糸握りなんだけどねえ。
本誌 ところで、組合長としての御仕事は如何ですか?
米田 「国の伝統的工芸品」に指定されているので、国、和歌山県、橋本市からの連絡に対応する。イベントの企画や協力を行う。少しでも竹竿の振興に務めたいと思っています。
本誌 とはいえ、生活様式が変わる中、伝統的工芸品の将来は決して明るくありません。日常生活の中で使う機会が減る。加えて職人の心の籠った高品質=高価な品を買う人は多くない。
米田 そう、伝統的工芸品は申請にあたって「日頃使う」が基準にある。ところが、漆の椀も和服も今や日用品とは呼べず、絶滅危恨種ばかり。その一方、作るのが大変。竹竿を例にとれば工程は130以上で…私たちは塗師、竹細工師、時に蒔絵師や螺鈿細工師までこなさなくてはなりません。
本誌 100円ショップの対極にある伝統的工芸品。生き残りは大変と思います。
米田 販売面についても、かつては前金まで渡してくれた問屋さんが減った。現在活動しているのは、私が知る限りタケナオとヘラガミの2軒だけ。小店も全国で20軒あるかないか。小店とは宅急便で直接遣り取りしています。
本誌 小店と直接なら、中間マージンが消える分「竿師の手取りが増える」とも云えます。
米田 そうはいっても、竿師そのものが減ってる。
本誌 昔は2百人以上と云われましたが。
米田 今は実働15人程かな。楽勇心が一番若く、それでも40代。
本誌 年に1人100本売れますか?
米田 難しいな。逆に100本売れる人気竿師なら、丁寧に仕事するため100本作れない。
本誌 尺単価、売れている竿の長さ、小店への卸価格を考えると年収が想像できます。国は伝統的工芸品に指定してくれたけど、竿師の生活を守ってくれるわけではない。大変だと思います。加えてリサイクルの問題があるでしょう。
米田 大問題。リサイクルと競争させられるのは辛い。けれど、どうしようもない。
本誌 瑞雲さんの尺単価は現在10〜12千円。それがリサイクルの店頭へ並ぶと半値ほど。しかも、リサイクルでも修理には堂々戻ってくる。
米田 そう、修理は大変。皆さん、穂先なら穂先、穂持なら穂持だけ変えれば良いと思うでしょ。ところが、生地組みの段階でバランスを計算してあるから、全体を考えて修理しなければならない。合う材料を探し、バランス崩さず直すのは簡単じゃありません。使い込んでいれば、漆の色に差が生じないよう、全体を塗り直すこともある。
本誌 分かります。
米田 といって、修理に新品と同じ値段を頂くわけにもいかないでしょ。しかも「新品かリサイクルか」の区別は難しいから、常に誠実に対応しなくてはいけない。安心して買っていただくためにも修理は大切で…新品を作りつつ修理に時間を取られるのが現状です。
本誌 安心して買っていただくためにも修理は大切。良い言葉ですね。けど、櫓聾のように故人となった竿の修理はどうするのでしょう。
米田 一門で引き受けるだろうけど、櫓聾は難しいかな。削りに削って漆を掛けた穂先の修理など、誰もやりたがらない。けれど、櫓聲は修理に戻ってくることが少ないそうです。
本誌 おそらく使っていないのでは。
米田 竹竿が修理に苦労する一方、カーボン竿は何年かでパーツがなくなる。すなわち、修理を受けない。新しいのを買わざるをえない。あれは羨ましい。
本誌 だからこそ「新製品に経営資源を向けられる」のかな。そんな厳しい状況の中、竿師の目標は?
米田 昔は大量生産の人が居た。父もそうだった。今は最初から、手間暇掛けても高い竿を目指してます。
本誌 大量に売れない以上、当然とも云えます。とはいえ、そうなると下を支える尺3〜4千円の人がいなくなってしまう。「まず買ってみよう」の竿から高い竿へと移っていけないと…業界全体では問題ありますね。
米田 そう、今や竿師が沢山作って、小店が沢山買って店頭に並べる時代ではありません。受注生産に近い。
本誌 中世のようですね。
米田 竿を買ってくださるのは豊かな働き盛り。仕事をやめると、購入が止まっちゃう。そして、稼げなければ若い人が竿師を目指さない。このまま竿師の数が10人を割り、高い竿ばかりの受注生産になったら…売上が減り、小店の存続も危うくなるかもしれません。
本誌 昔は30代40代が竿を買っていたのですね。今は竹竿に限らず、へら鮒釣りは道具が高価で敷居が高い。野釣りを本格的に始めようと思えば、40〜50万掛かっちゃう。リール竿1本持って近所の川や海で楽しめるルアー釣りとの差は大きく…最近、へら鮒釣り関係者と話す度に「この素敵な遊びの将来が容易ではない」ことを痛感します。
米田 ほんと、竿を作る側にしても、商売として魅力的になってほしい。隠れ谷のジュニア大会に来る子供が「将来は竿師になりたい」と言ってくれるのが理想です。
本誌 ご活躍ください。竹竿もへら鮒釣りも「保存会」にならないよう、共に務めましょう。
   
 
令和6年(第53期)放流協賛金(放流バッジ)のお願い
 今年度は、10月8日(日)の北海道地区を皮切りに、2024年4月6日(土)の三名湖まで、全放協分7,174kg、全放協委託分44,767kg、日釣工委託分3,572kg、日釣振委託分480のき、日研分1,827kg、日研委託分9,112kgの合計66,932kgを全国の湖沼および管理釣り場に放流します。
 なお、放流バッジ郵送時に協賛金の振込口座を指定した用紙を同封しますので、放流バッジが手元に届いてからの振込をお願いします。

放流協賛金(放流バッジ)1個:1,500円

申込先:全日本へら鮒放流協議会 〒135-0004 東京都江東区森下1−18−7
                              日修ビル2F
TEL:03-3846-5077 FAX:03-3846-5113
E-mail:zimukyoku@nikken-web.net
必要記載事項:氏名、郵便番号、住所、電話番号(携帯)、必要個数
 
シリーズ「この人に聞く」第92回 森養魚場 森 義典氏


森養魚場 森 義典氏





倉庫代わりの畜養池





此の桟橋から毎朝エサを撒く





倉庫に積まれたエサの材料





数種の材料を攪拌して
エサを作る





此のトラックに載せて出荷
   へら鮒釣りにとって「最も大切なことは何か?」を尋ねたら、おそらく「放流」という答えがトップに来るであろう。昭和47年に全放協が誕生する前、野べらを相手にしていた頃は「オデコ当然、釣れて1〜2枚」であった。自然環境が悪化する中、へら鮒釣りが10キロ20キロの水準を保っているのは…全て「放流」のおかげである。そんな放流を支えているのが養魚に携わる方々。放流の季節を前に、森養魚場(大阪府和泉市)森義典氏にお話を伺います。(聞き手:広報部 吉本亜土、令和3年11月発行 日研ニュース608号より)

本誌 まず、お生まれは?
 昭和26年、此の信太山で生まれました。
本誌 信太の森では人間の父とキツネの母の間に陰陽師・安倍晴明が誕生し、北へ行けば世界遺産の仁徳天皇陵。歴史ある場所ですね。
 そう、家を建てようとすれば、地下から何か出てきちゃう。町内には熊野街道も走っています。
本誌 中世の天皇・上皇も此処を通って熊野を目指したのですか!だんじりで有名な岸和田も直ぐ南です。
 岸和田に限らず、此の一帯、お祭りと云えばだんじり。私も子供の頃は引っ張ってた。スピードを上げ、後ろの梃子と前のブレーキだけで回すのがスゴイ。だんじりをぶつけ合うこともありました。
本誌 そして、地図を見ると一帯には溜池が多い。森家は昔から養魚場を営んでおられたのですか?
 昭和初期から養魚場です。初代を其の甥が継ぎ、二代目に子供がいなかったため、甥の私が三代目を継いだ。伯父は直ぐ近くの池で釣り堀も経営していて…子供の私はウドンをエサに遊んでました。
本誌 昭和初期からですか!松竹撮影所もあるハイカラな町、蒲田にへら鮒専門の釣り堀・釣楽園が開業したのが昭和6年の秋。増田逸魚が名著・へら鮒三国志で「梅田(大阪)駅から活魚車で400貫を運んだ」と伝えています。
 けれど、当時は専ら食用。今も2割は食用。
本誌 結構多いですね。
 冷凍や冷蔵での魚輸送が難しかった時代、海から遠い場所では新鮮なへら鮒が沢山食べられていました。現在も大阪、京都、滋賀、岐阜、茨城へ出荷しています。
本誌 サイズは?
 大阪は5枚キロ、京都は4枚キロ。片身で一人前を洗いにして酢味噌で頂く。
本誌 京都の錦市場へ行くと、鮒の卵をまぶしたのを経木に載せて売ってます。
 卵を持ってる2〜4月だね。
本誌 滋賀は?
 もちろん鮒寿司の材料。今、琵琶湖でニゴロブナが獲れないでしょ。天然だとサイズも揃わない。鮒寿司は「卵が値打ち」のため、2月に3枚キロから3枚半キロを送っています。内臓を抜いて樽の中で塩漬けし、塩を抜いてから御飯を詰めて乳酸発酵させ、秋には漬け上がる。凄い臭いだけど、お茶漬けも美味しい。
本誌 NHKの新日本風土記では「お粥に鮒寿司を一切れ埋め、醤油を垂らすのがお勧め」と紹介してました。
 元々ヘラブナはニゴロブナの代用でしたが、口に入れてしまえば、味は変わらないらしい。加えて、へらは身が軟らかい分、漬ける時間が短くて済むそうです。今は「ヘラブナの鮒寿司」の方が多いんじゃないかな。
本誌 岐阜は?
 洗いと煮つけ。
本誌 名古屋に住んでいた頃、大豆と共に八丁味噌で煮込んだ「鮒味噌」を売ってました。
 需要は減り気味だけど、中京はフナの煮つけが好き。昆布巻の芯にも使います。
本誌 茨城にも出荷されてますね。
 これは甘露煮用。「煙草サイズ」と呼ばれる小型が使われます。
本誌 森養魚場は他に?
 20pサイズのへら鮒と同じ池でモロコを育てています。まず目の粗い網でへら鮒を獲り、次に目の細かい網でモロコを獲る。
本誌 京都の料理店では、春になるとモロコを小さな七輪で焼きますね。
 あれは琵琶湖のホンモロコ。此処のはタモロコで、口の形がちょっと違う。甘露煮や佃煮の材料になります。
本誌 値段は?
 モロコの方がへら鮒より高い。とはいえ、ブラックバスを含む生態系が安定したのか、琵琶湖での漁獲量が増える一方、コロナで需要が落ちて値が下がりました。それでも、へら鮒に比べれば高い。そう、ウチはやってないけど、川海老を出荷する養魚場もあります。
本誌 何に使うのですか?
 活海老として出荷され、海釣りの餌になる。そうだ、瀬戸内海とか、モロコを釣り餌に使うところもあります。
本誌 海老は高そうですね。
 けれど手間が掛かる。加えて一度に200キロとか出荷すると、問屋も買い切れない。トラックに積んで海岸の舟宿を回っていくそうです。
本誌 森養魚場が「釣りの対象」としてへら鮒を出荷するようになったのは?
 昭和30年代後半からです。当時は大阪駅から汐留駅まで活魚車。養魚組合の担当者が交代で乗って見守り、汐留に到着すると問屋が魚を引き取り、埼玉の釣り堀とかへ運んでました。
本誌 そして、輸送はトラックへと変わる。
 昭和40年代半ば、4トントラックに変わりました。日研の担当が西田、杉本、森の各養魚場で計量し、トラック3台が高速道路を走って小金魚邨さんの川越FCに集合。日研の指示を受けて各所へ散っていく。仙台まで行ったこともあります。
本誌 現在、森さんは養魚池を幾つ程お持ちですか?
 小さい池も入れると19。1町歩(3千坪。100m×100m)に満たない池は、収獲したへら鮒を畜養する倉庫代わりに使ってます。へら鮒は年内に終わるけど、食用は4月まで置いておくこともある。
本誌 へら鮒はどうやって収獲するのですか?
 まず、池の水を抜いて水位を下げ、網を引く。建築用の瓦上げ機(リフト)と人の手で網からトラックの水槽へ移す。此処の堤防は幅2mそこそこで、3トン車が精一杯。クレーンを使えないのです。トラックから畜養池へ降ろす時は、放流と同じくシューターで流し込む。何時も来てくれる人たちと私と5人程で獲ってます。
本誌 池は何処から借りているのですか?
 農業用水池を水利組合から借りてます。村が共同で池を持っていて、川から田圃へ水を引く堰の高さや仕切り板の上げ下げを話し合いで調整する。大きな池だと8カ村=8つの組合があったりする。その代表と賃借料など条件を決めています。昔は入札もありました。
本誌 池によって良い悪いがあるのですか?
 大型トラックが入るなど、条件が良ければ高くなる。今は採算が芳しくないため、本当は値下げして欲しいけど…昔から顔を知っているため、なかなか言い出せません。
本誌 池によって育つへら鮒に変わりはありますか?
 20pまでは浅い池。量が出来ます。大きいのは深い池。逆にあまり深いと、夏に酸欠が起きたりしてマズイ。
本誌 深いと酸欠ですか?
 雨や風の気象条件が重なると、池の水が上下入れ替わったりするのです。そうなると、下にあった酸素不足の水に囲まれ…上に居るへら鮒がダメージを受ける。
本誌 初めて知りました!ところで、大小で育て方は違うのですか?
 稚魚をサイズ分け(網の目で調整)する時、小さいのが良ければキロ100匹、大きいのが欲しければキロ15匹とか…調整します。
本誌 親となる立派なへら鮒は「財産」と聞きます。
 昔はね。今は形良くお腹の張った、卵を沢山持ってくれるキロ2枚半程のメスを約5年で入れ替えます。
本誌 「大きければ良い」というわけではない。
 そうです。シンギョと呼ばれるメスの親魚1枚あたり4〜5枚のオスを放すのですが、あまりメスが大きくなるとオスが追い難い。
本誌 なるほど。
 同じ池でずっと飼ってると、その気にならないのでしょう。ところが交配用の小さな池へ移すと、環境が変わって刺激され、直ぐに産卵が始まる。
本誌 人間にもありそうです。
 4月から連休明けに掛け、浮かせておいた草に産卵する。雨も寒さも少ない、気候的に安定した時期で…卵や孵化した稚魚が大水で流されることもありません。
本誌 私たちにとって快適な時期は、魚にとっても快適なのですね。ところで、養魚業者の1年はどのように流れていくのですか?
 先程お話したように、冬場は食用の寒鮒を出荷。昔は春先に大阪の釣り堀から「釣れないので追加放流」の注文が来たりしたけど、今はありません。3月には「孵って1年」の稚魚をサイズ分けして養魚池へ入れていく。4月中頃から卵を採る段取りを始め、孵化した順に稚魚池へ移していく。5〜9月はエサやり。
本誌 そして秋に収獲。
 水位が低くないと獲り難い。夏は田圃で水が要るため、9月末の彼岸明けから水を落とし始めます。大きな池なら2〜3週間かかる。
本誌 そんなに!
 一気に落とすと水路が壊れてしまうのです。稲が実ってる田圃に水が入ってもマズイ。そして、水位が下がり気候も安定する10月末から12月に放流魚を出荷。それより寒くなると、魚が血走ったり風邪をひいたりするんです。
本誌 魚の出荷にあたって、注意していることはありますか?
 放流魚の場合、9月いっぱいでエサを止めます。最低1週間から1カ月はエサをやらない。体力をつけた後、魚を締めて運ぶのです。腸の中が綺麗になるから、輸送中の水も汚れない。そして、お腹が空くのか放流した午後から釣れる。
本誌 食用の場合は?
 やはり、出荷前はエサを止めます。此れにより、与えていたエサの癖が消える。
本誌 昔の養殖ウナギは「サナギの味がした」と聞きました。
 そうです。鯉も清流で暫く飼っておけば、泥気が抜けて美味しくなるでしょ。加えて、エサ止めしないと身が締まらず洗いに向かない。
本誌 なるほど。エサ止めする前は、毎日エサを与えるのですか?
 エサは同じ場所から朝だけ撒いてます。
本誌 どのようなエサを?
 じゃがいもを原料としたスナックや御菓子の屑、小麦粉、カップヌードルに使われる人造肉などが主です。製造過程ではねられた物、賞味期限が切れた物を専門に集める業者がいて…スナックなどは其の業者が揚げ油を絞って回収し、絞りかすが魚のエサになる。
本誌 初めて知りました。
 養豚場や養鶏場でも同じようなエサが使われているはずです。
本誌 魚粉は?
 業者によっては使っています。例えば、野べらを集めて栄養ある魚粉を与え、一気に大きくする。
本誌 長期飼育の場合は配合飼料、短期決戦の場合は魚粉なのですね。ところで、生き物を飼って育てる以上、病気と無縁ではいられません。へら鮒の衛生管理、大変ではありませんか?
 専ら寄生虫ですね。おかしな跳ね方をしたり、魚が騒がしかったりすると、ウオジラミやイカリ虫が湧いてたりする。
本誌 原因は?
 エサをやりすぎる→魚が食べ残す→水が汚れる→寄生虫が湧く。環境を清潔に保つこと、そして魚を飼う密度が大切。昭和40年代に流行した穴あき病は「密に飼い過ぎた結果」だと思います。
本誌 魚にもストレスが掛かるのですね。
 そう、量を求めるとロスも大きい。年に10トン死んじゃったこともあります。大量の生魚は焼却炉が傷むため、ゴミとして引き取ってくれない。適当に捨てれば苦情が来るし、処分の方法がない。池の減水した所に穴を掘って埋めました。
本誌 しかもお金にならない。ロスの問題は大きいですね。
 結果、昔は1町歩で3トン4トン出荷したけど、今は1.5トン。これで病気が出なくなった。今は時に鱗が赤くなる程度で、特に薬は与えていません。エサの加減で寄生虫も減らせます。
本誌 現在、森養魚場の出荷量は如何ほどですか?
 管理池が続々生まれ、食用も売れたバブルの時代は凄かった。2000年代初めまでがピークでした。当時は日研だけで30トン以上、釣り堀に50〜60トン、食用に寒鮒で20トン、茨城へ送る甘露煮用の煙草サイズが20〜30トン、総計120〜130トン。
本誌 森さんの処だけで!
 今は日研および管理池へ30〜40トン、大阪〜茨城へ食用8トン程度。後はモロコです。
本誌 カワウの被害も大きいのではありませんか?
 ウが来るのは12月から2〜3月。おそらく、寒くなった琵琶湖から南へ下りてくるのでしょう。春になると琵琶湖へ戻っていく。
本誌 カワウへの対策は?
 一番効果的なのは人間が見張ること。池畔に家族でつきっきりのところもあるけど、毎日は難しい。池の上に網を張ってます。
誌 気の休まる時がありませんね。
 そう、昔は放っておけば育ってくれたけど、カワウの問題が生じてから、のんびりできなくなりました。台風の大水で魚が流されたりもするし、稚魚の6割ほど収獲できれば上々でしょう。
本誌 ソーラーパネルは如何ですか?「養魚に使えない池が増えているのでは」と心配です。
 そう、水利組合がOKすれば池にパネルが並んでしまう。但し、信太山近辺にも申し込みはあるけど、水利組合が認めていないようです。
本誌 何故でしょう?
 太陽光を取りこむため、パネルは一定方向を向いていることが大切。そのため微調整が必要で…パネルが水面に浮いていると、水を思うように減らせない。水利組合の人から「肝腎の水を好きに使えなくなるので、ソーラーパネルは受け入れない」と聞きました。加えて近所から「ソーラーパネルが並ぶと周辺が暑くなる」と反対の声もあるようです。
本誌 なるほど。とはいえ、出荷量減少、価格の低迷、エサ代の値上がり、カワウの問題など、養魚を取り巻く現状は安泰とは云えません。
 そう、出荷量減少、すなわち売上減少が大問題。日研や管理池への出荷量だけでなく、需要減とコロナのため食用分も右肩下がりで、川魚を扱う店も問屋も減っている。仕事はキツイし、子供には「後はやめとけ」と言ってます。
本誌 私たちを取り巻く状況を調べれば調べるほど「将来を楽観できない」ことが分かります。中でも大切な養魚が揺らぐと…へら鮒釣りそのものが終わりかねません。そんな厳しい状況にあって、どんな時に喜びを感じられますか?
 思ったサイズが沢山出来た時が嬉しいかな。
本誌 親の気持と同じですね。養魚こそが「へら鮒釣りを支える」柱。御身体を大切に、此れからも御活躍ください。次回は是非、網を引くところを見学に伺います。
 
シリーズ「この人に聞く」第93回 こま鳥 山上寛恭氏
↑ イタリアの雑誌に「こま鳥」の竿が フェラガモやグッチと並ぶ世界の一流品として紹介された。
 


こま鳥 山上寛恭氏




こま鳥の少年時代
父(山上政信)の愛犬と




こま鳥と父
みさき公園(大阪府泉南
南海電鉄経営の遊園地)か


「初代こま鳥」コレクション



初期の竿
仲間内では 政信でなく
「高司さん」と呼ばれていた




白浪 替え握りつき




こま鳥 珍竹
横書きである




こま鳥 雪月花
同じく横書き





山彦一門と取引のあった
谷山商事の旅行会にて 
父 山上政信(初代こま鳥)




谷山商事の竿袋
こまどり 雪月花 16尺
   令和2年の秋、瑞宝単光章受章、和歌山県名匠受賞。令和3年11月、橋本市において記念祝賀会が開かれた山上寛恭(やまうえひろやす)氏(竿銘:こま鳥)の登場です。本年5月には野田幸手園において叙勲記念つり大会も開かれ、其の収益の一部を放流資金として全日本へら鮒放流協議会(全放協)へご寄付くださいました。心より感謝申し上げます。
(聞き手:広報部 吉本亜土)

本誌 改めておめでとうございます。来る途中、南海電車のターミナル、なんば駅の巨大スクリーンにこま鳥さんの姿が映っていて驚きました。
山上 和歌山県や橋本市のサポートで、製竿組合の画像広告を出してくださっています。
本誌 確かに、紀州のへら竿は和歌山県を代表する伝統産業。業界を代表する人として、勲章および名匠の称号が贈られたわけですが、どのような過程を経て晴れの受賞へ至ったのですか?興味があります。
山上 まず、一昨年の令和2年、和歌山県から「名匠審査のため、8月に仕事場へ7〜8人で伺いたい」という連絡がありました。
本誌 県からいきなり?
山上 工芸、歴史など各界の専門家がやってきました。
本誌 横綱審議会みたいなものでしょうか。
山上 へら竿を知らない方々ですから、へら鮒釣りの説明に続いて竹竿の魅力を話しました。名匠の内定通知は9月1日。県の文化部から「誰にも言わないでください」と電話がありました。昭和49年の源竿師から、げてさく、山彦、魚集、至峰と続き、私で6人目。和歌山県には橋本市を通じて「製竿組合が内緒で推薦していた」のでしょう。
本誌 すると今回も?
山上 令和元年に亡くなった玉成(川崎幹生)が組合長の時に推薦してくれたのかな。感謝しています。10月末、橋本市長と一緒に県庁へ行って、県知事から表彰を受けました。
本誌 そして勲章。
山上 此れには驚いた。全く予想していなかったのです。
本誌 どのような形で連絡が来るのですか?
山上 名匠内定後の9月15日、製竿組合が運営する釣り池「隠れ谷」へ(財)伝統的工芸品産業振興協会を通じて経産省からファックスが入りました。
本誌 え!
山上 名匠審査の過程で、隠れ谷のファックス番号が記されていたのでしょう。名匠の時と同じく「内定です、内密に願います」とありました。
本誌 管理人さんは驚いたでしょう。
山上 そして、一月半後の11月3日に公式発表。
本誌 毎年、新聞に勲章、人名、肩書がずらりと並んでる。内密とはいえ、新聞社にはデータが渡っているのですね。
山上 でしょうね。そして、11月3日の公式発表前に、勲記を収める額縁や受章記念品を勧めるDMが沢山送られてきた。
本誌 関係業界も知っている!
山上 その中で額縁を選び、祝賀会に集まってくださったメンバーからお祝いとして頂くことにしました。
本誌 会場正面に飾られていた勲記の額ですね。ところで、勲章はどのような形で手元に来るのですか?
山上 本来なら経産省における伝達式で勲章を頂いた後、皇居で拝謁式そして記念撮影となります。
本誌 毎年文化勲章受章者の写真が新聞に載ってる。受章者は全員が撮影対象なのですね。
山上 そうです。どんどん撮っていきます。ところが、コロナで全てダメになっちゃった。
本誌 となると…
山上 橋本市の部長と製竿組合の組合長(瑞雲:米田 護)が家へ届けてくれた。
本誌 名匠が知事で勲章が部長、しかも家へ配達ですか!
山上 コロナ禍の中での勲章伝達。初めてのことばかりで全員が戸惑っていました。加えて、皇居での写真撮影もコロナのため延期に次ぐ延期。私の令和2年秋に続いて令和3年の春と秋の叙勲があり、撮影対象者はどんどん積み重なっているから、今後どうなることやら。
本誌 奥さまと並んで皇居で写真撮影。実現するといいですね。
山上 それでも、勲章を見ると実感が湧きます。
本誌 月並みな質問ですが、勲章を頂いての感想は?
山上 此れまでの努力が認められたこと、紀州へら竿が評価されたことが嬉しい。なにより、製竿組合の皆様のおかげ。全ては組合ありきです。
本誌 では、受章へ至るこま鳥さんの道程を伺いたいと思います。まずお生まれは?
山上 昭和27年3月。此の橋本で生まれました。父は初代こま鳥(山上政信)。
本誌 名人と呼ばれた人。日研理事長も務めた渡辺紀行の大著「紀州のへら竿師」に「人柄の良さと才能あふれる竿師であった」「試行錯誤しながら探求の道を彷徨する、いわばアーティストのタイプであった」と記されています。
山上 優しかった。けど、アーティストと言われると…。決して器用ではなかったな。
本誌 そして、お父様の元へ。
山上 昭和45年3月、高校を卒業。18歳で父に入門しました。
本誌 仕事の面でも優しかったですか?
山上 可能な限り正確を心掛けていました。そして温厚。兄弟子にあたる一心竹も私も怒られたことがない。それだけに怖かったとも云えます。
本誌 ところが、入門から1年も経たない12月、45歳の若さで亡くなってしまわれる。お父様と親方を同時に失う。青天の霹靂だったと思います。そして…
山上 伯父の山彦親方(山上薫廣)の元へ入門することになりました。
本誌 一門とはいえ「ここが違うのか!」と感じることはありましたか?
山上 やはり仕事は似ていました。伯父の火入れもきちっとしていた。なにより、昭和45年の入門から昭和50年の卒業まで、自分の仕事を犠牲にしながら、よく教えてくれました。心から感謝しています。
本誌 そして昭和50年、二代目こま鳥としてデビュー!
山上 最初に出荷されたのは、山彦の手がいっぱい入ったこま鳥でした。
本誌 やがて、山彦の手の入る割合が減っていく。
山上 そうです。伯父の最終チェックを受けつつ、私一人の仕事へと移行し…昭和51年、24歳で独立。
本誌 肝腎の価格は?
山上 下がらなかった。父が作っていた時と同じ。
本誌 プレッシャーがきつかったはずです。
山上 当時は早く経験を積みたかった。早く歳を取りたかった。
本誌 プレッシャーを力として現在の地位を築き、受章へと至る。素晴らしいです。さて、名竿を生み出す和歌山はじめ関西のへら鮒釣りの状況は如何ですか?
山上 此処から近い岩出の菊水、貝塚の水藻、川西IC近くの天神池、竹内街道の竹の内など自然を生かした管理池が幾つかあるけど、野釣りを含めて関東ほど釣り場に恵まれません。なにより、釣り人の数が減った。殊に神戸が減った。震災後、釣りどころではなくなったのでしょう。
本誌 製竿組合の池、隠れ谷は?
山上 やはり減ってます。平日で10人来るか来ないか。日曜日は例会が入るけど、それでも40〜50人。
本誌 一日1500円ですよね。経営が成り立ちますか?
山上 民間企業なら潰れているでしょう。製竿組合員による奉仕と和歌山県、橋本市のサポートで成り立ってます。
本誌 それは良かった。
山上 県も市も「釣り公園的なもの」と位置づけてくれています。トイレも橋本市が整備してくれた。
本誌 トイレは大切。トイレを見れば経営者のヤル気が分かります。
山上 そのとおり。トイレが綺麗でないと、女性が来られない。
本誌 ウオシュレットも大切ですね。
山上 そう、台風で壊れた桟橋の整備も県と市が助けてくれた。サポートがあるから、やっていけてます。
本誌 で、隠れ谷は釣れてますか?
山上 冬はカーボンの長竿で沖の浅場を狙うと釣れる。けれど、竹竿の人は良い顔しない。
本誌 それはそうでしょう。
山上 此の辺りだと「数なら隠れ谷、型なら菊水」と云われるけど、竹竿のことを考えたら、8寸くらいが丁度良いのかな。
本誌 関東の管理池も大型化が進んだ結果、真冬の日曜日など浮子が動かない。「小型でいいから、沢山放して欲しい」との声は少なくないでしょう。ところで、隠れ谷を支える製竿組合の状況は如何ですか?
山上 実働15名ほどかな。釣り人減少による竹竿の需要減から、全体数が減りました。そのためフィッシングショーなどの催事や隠れ谷の手伝いが間に合わなくなってきた。子供たちのための隠れ谷の釣り会の運営も大変。地元の小学校も人数が減ってきたので、此れからは「2〜3校纏めて」になるかもしれません。
本誌 竹竿需要が減る中「掛け玉が売れ筋」と聞きますが…。
山上 やはり竿の方が売れてますよ。私の場合、掛け玉は精々2〜3割かな。
本誌 何故、上等な掛け玉に人気があるのか?釣具店に尋ねたことがあります。答は「安い竿でも、こま鳥の竿掛けに置いたら映えるから」。確かに逆はありえません。
山上 新しいお客様を迎えるべく、作ってます。最初は掛け玉から入り、次に竿を買ってくださると嬉しい。
本誌 ところで竿掛けと竿、どちらが難しいのですか?
山上 皆さん、竿掛けは簡単だと思ってるでしょ。
本誌 はい、思ってます。
山上 竿掛けには竿掛けの難しさがある。材料の入手が大変なんです。昔は竿の長さが長かったので、1本半の8〜9節の竿掛けで115p+追い継ぎ35p。これに15〜16尺が載る。追い継の竹と玉の柄の竹、同じ太さで揃えてあります。
本誌 今、竹の15〜16尺を振る人は殆どいないでしょう。
山上 そうです。竿が段々短くなり、12尺を載せるなら1本半8〜9節の竿掛けで100p+追い継ぎ30p。
本誌 12尺もなかなか見かけません。
山上 そうです。今は8〜9尺が主流。それを載せる90pの竿掛けに10や11節を求めるようになったのです。
本誌 小節の竿掛け、人気ですね。希少価値だから自慢できる。
山上 しかし、そんな竹は滅多に生えていない。
本誌 誰も持ってないから嬉しい。よく分かります。
山上 ご希望に応えるべく、竹屋さんに探してもらってます。
本誌 今でも竹を探す伐子が活躍しているのですか!
山上 私より若い人が個人でやってる。ライトバンで各地を回ってます。自分でも伐りに行くことがあるけど、作業の合間に1カ月以上割けません。
本誌 よく分かります。
山上 とはいえ、綺麗に仕上げても、小節で作らないと「こま鳥は材料を持ってないのか。8節9節しかないのか」と言われちゃう。
本誌 機能的に一緒でも、其処までこだわりますか!
山上 そして10節や11節を漸く見つけても…芽が深い、テーパーがない、楕円になってる。こま鳥の名に恥じぬ、美人の竹は滅多にありません。けど、苦労の末に伐ってくれてるから「全部ダメです」ともいかないでしょ。ロスになる割合を考えると…小節の仕入れ価格は吉本さんが思っているより遥かに高いです。
本誌 それで7尺の竿となったら…。
山上 7尺の竿なら竿掛けは80〜85p。11節の良質の竹など滅多にありません。
本誌 ところで、小節の生える条件ってあるのですか?
山上 掛け玉には矢竹が使われます。小節の入る条件は限られていて、すくすく育つと節が出ません。日の当たり具合と土壌が大切。加えてテーパーも求めるから大変。1年待っても、材料がなければ作れない。それでも、竹竿も掛け玉も買ってくださる人がいるから幸せです。
本誌 そうです。漆器、織物、陶磁器。伝統工芸の世界は何処も辛いでしょう。生活様式が変われば、100円ショップで間に合ってしまう。
山上 そう、奈良の五条は桐下駄の産地として知られたけれど、下駄を履く人がいなくなれば下駄職人は消えてしまうのです。
本誌 伝統工芸という言葉が出たところで…茶室に置いてもおかしくない逸品を日や風のあたる中で振りまわす。作る側も大変でしょう。
山上 竹竿の趣、工芸の美しさを保ったうえで、使える竿を作りたい。そう思ってます。
本誌 そして、こま鳥は見事な卵殻握りで有名です。どのように作るのですか?
山上 玉子の殻をお盆の上で細かく割り、茶こしの網目で分けていく。
本誌 養魚池で網を引くのと一緒ですね。網目で大小を選別する。
山上 そうです。三角や四角も選んでいく。
本誌 やはり高級な玉子を使うのですか?
山上 いやいや、スーパーの玉子で十分。但し、生玉子から薄皮を剥くのが面倒。薄皮があると、皮が邪魔してピッとした綺麗な目にならないんです。
本誌 地の色と白のモザイク模様との対比。とても綺麗です。最後に…受章を機に心境の変化などありましたか?
山上 紀州のへら竿が頂いた。そう思っています。業界全体、後輩全体に対する恩返しをしなくてはいけない。此の文化が後々まで続くように尽力しなくてはいけない。その気持がより強くなりました。
本誌 御仕事の上では?
山上 技術を更に高めていきたい。将来の後輩たちに恥ずかしくない竿を作りたい。そう思っています。
本誌 力強い御言葉です。益々ご活躍ください。
  
 

中央 伯父 山上薫廣(山彦) 右 父 山上政信(初代こま鳥)
 


谷山商事の旅行会にて。
左が父、右が陽舟(石井利和)。この時代、ネクタイ締めて旅行に出掛けたのである
 
 

おそらく昭和30年代後半。黒っぽい服を着ている8名が竿師。左から夢坊(南孝雄)、東峰弟(川崎幸男)
師光(児島光雄)、源竿師(山田岩義)、東峰兄(川崎清照)、至峰(津田満雄)、こま鳥(山上政信)
げてさく(石井義夫)。後ろの3名は問屋さんか?
 


左から夢坊(南孝雄)、山彦(山上薫廣)、こま鳥(山上政信)
細川俊夫、木村国男、江戸家猫八、江戸家小猫
 

昭和53年頃、岐阜県瑞浪市の松野湖にて。源集会(源竿師一門)、薫心会(山彦一門)、魚集会、
竿春会の合同釣会。前列 左から5人目が魚集、右へ一竿子、竿春、源竿師、山彦、宝春生。
2列目右端が こま鳥(山上寛恭)。

 

父 初代こま鳥
 
シリーズ「この人に聞く」第91回 生態学の権威 池田清彦先生
 



 TV番組「池の水ぜんぶ抜く」において、へら鮒は「国内外来種」の汚名を着せられ、駆除の対象となっている。当然「日研は何故強く反論しないのか」の声を頂いてきた。此れに対し、現執行部は「池に生息する生き物は池の所有者・管理者に帰属する。外来種の認定や駆除は問題の本質でなく、池の所有者・管理者の処分権に拠る。彼らが駆除に同意すれば外部から口を挟むことは難しい。原理主義的生態学者の戯言は放置する」との見解をとってきた。
 とはいえ、我らのへら鮒が駆除の対象とされるのは納得がいかない。どのようにして「国内外来種」という言葉が生まれ、「国内外来種を駆除」という発想に至ったのかも知りたい。日本釣振興会の評議員を勤め(遠藤理事長も釣り人団体を代表する評議員)、「ウソとマコトの自然学」「自粛バカ」「初歩から学ぶ生物学」など多くの著書を世に送り、TVでも活躍する生態学の権威、池田清彦先生(理学博士、早稲田大学名誉教授、山梨大学名誉教授)にお話を伺います。(聞き手:理事長・遠藤克己、広報部・吉本亜土)。


本誌 お忙しい中、ありがとうございます。お話を伺うのを楽しみにしていました。まず、先生のお生まれは?
池田 昭和22年、東京都葛飾区で生まれ、小学校に上がる前に足立区の梅島へ引っ越しました。今でこそ宅地になっちゃったけど、当時は自然が豊かでした。田圃の水を温めるための溜池が沢山あり、フナ、タナゴ、ナマズ、雷魚を釣ったり四つ手網で獲ったりしていた。冬に水中眼鏡を着けて、コイを手づかみすることもあった。もちろん虫も追いかけ、今でも昆虫採集は好きです。
本誌 専門分野についてお教えください。
池田 「構造主義生物学」と呼ばれるシステム論です。生物は遺伝子の変化だけで進化するわけでなく、遺伝子を動かすシステムが大切。それが変わると、生物も変わる。1980年代から訴え続け、最近ようやくメジャーな生態学者も認めるようになりました。
本誌 具体的な例をお教えください。
池田 鯨とカバは系統的に近い存在。鯨は牛や豚より「カバに近縁」と云えるでしょう。遺伝子を動かすシステムが変わり、足を作る遺伝子を抑えて別のことを始めた、すなわちヒレを持つようになったのです。
本誌 遺伝子を働かせるシステムが生物の発展や衰退を支配しているのですね。
池田 大きな進化ではそうです。ただミクロな進化では、突然変異や交雑など遺伝子の変化も進化原因として重要。人間だって、アフリカに生まれたサピエンスがユーラシアへ移動し、そこにいたネアンデルタール人と混血して発展したとされています。云わば、アフリカに残ったホモサピエンス以外の現生人類は遺伝子汚染の産物。アフリカを出たサピエンスのうち、純血を守ったものは滅び、混血した人たちだけが生き残ったのです。日本人だって元は外来種で、あちこちからやって来た人たちのハイブリッド。遺伝子汚染などという言葉で交雑を排撃するのはおろかの極みです。
本誌 外来種への排撃、ナチスの優生思想にもつながりますね。
池田 保全生態学と呼ばれる、種の絶滅や人間社会への影響を重視するグループがあり、彼等は最初から交雑や外来種に対して偏見を持っている。元来生態学は世間の注目を集めにくいし、お金も出ないでしょ。そこで、連中は外来種に目をつけた。外来種を悪者にすれば研究費を引き出せるからです。地球の歴史を振り返れば、地球の温暖化や寒冷化は当たり前の変動であるにも関わらず、IPCC(Intergovernmental Panel on Climate Change、気候変動に関する国際評議会)が地球温暖化を人為による悪と決めつけ、研究費を手に入れるのと同じ手法。
本誌 本当に危険なのは地球の寒冷化と聞きます。
池田 そう、温暖化すれば作物の生産量が増えるので、寒冷化よりはるかにましです。それに実は、温暖化しているかどうかも定かではない。今年も左程暑くなかったでしょ。
本誌 9月に残暑が来るかと思ったら、いきなり涼しくなりました。
池田 彼等に反省はありません。その結果が電気自動車とソーラーパネル。EUが強く地球温暖化の危機を唱えているのも…彼等の金儲けにつながるから。
本誌 そう考えると、納得する部分が多いです。
池田 CO2の排出は温暖化にとってさしたる問題ではないので、石油や石炭を見捨てるべきではありません。原発に比べれば火力発電は遥かに安全です。一方、ソーラーパネルは10年経ったら瓦礫の山でしょう。風力発電の風車も取り外すのは大変。作る時、撤去する時、共に大変なエネルギーが掛かります。山を削り木を切って造ったソーラーパネルを収支決算すれば、CO2を減らせるというのはウソだと思う。電気自動車も作る時のエネルギーを考えると果たして如何か。
本誌 ソーラーパネルは景観にとっても大敵です。
池田 石油や石炭や天然ガスが主たるエネルギー源では、中東やアメリカやロシアやオーストラリアしか儲からない。「EUにも稼がせろ」が本音でしょう。規模は小さいけれど、外来種にも似たところがあります。
さして重要でもないことをあたかも大問題だと言いたて、外来種を悪者にする専門誌を作って論文を発表し、ポストを得ようとしている。
本誌 正に曲学阿世ですね。
池田 外来種は個体数の変動が激しいので派手な論文が書きやすく、加えて生態系に与える影響を煽ればマスコミが食いつく。すなわち食えるようになった。これが真相。
本誌 なるほど!そう考えると腑に落ちます。
池田 昆虫の分類やっても、なかなか研究費は下りない。けれど外来種を駆除する方法とか考えれば、文科省や環境省から予算が得やすい。テレビにも出られる。比較的スムースに階段を上がれる。そのためには大義名分が欠かせない。だから最初から「外来種を駆除しないと日本の生態系が大変なことになる」との立場が前提になっている。地球温暖化と同じ構図です。
本誌 国内外来種という言葉、日本の学会で市民権を得ているのですか?
池田 最近になって其の手の学者が考えた。昔は帰化植物という呼び名があったでしょ。
本誌 クローバーが代表的ですね。トマトもジャガイモも元々は日本になかった。
池田 けれど、帰化植物では悪者の感じがしないから外来種。国内で原産地を越えて広がるのが国内外来種。
本誌 外来種=撲滅対象ではキリがありません。
池田 そう、マジョリティの役に立つもの、大きなお金になるものには外来種のレッテルを張らない。農協や漁協を敵に回すわけにもいかない。
本誌 だから、ヤマメやアユの放流は非難しない。
池田 漁業組合があるから触らないのです。琵琶湖から全国へ放流されるアユは、間違いなく国内外来種です。彼等にとって遺伝子汚染、生態系破壊のはずだけど、漁業組合を相手にするのは大変だから知らない顔をしている。
本誌 だからへら鮒やコイを…。
池田 そう「相手を選んでいる」と言えなくもありません。へら鮒やコイを生活の糧としている人は少ないから。
本誌 口惜しいけど分かります。確かに「池の水ぜんぶ抜く」は漁協や自治体が放流している池を狙わない。
池田 マスメディアや学者にとって都合良い場所を選んで行っている。そう思えます。
本誌 ところで、改めて伺います。外来種や国内外来種が定着すると困ることがあるのでしょうか?
池田 オオサンショウウオが例に挙げられるかな。京都の賀茂川には日本のオオサンショウウオと、誰かが放した中国産のオオサンショウウオが居て、そのハイブリッド(雑種)が生まれている。誰も困らない。けれど、雑種を捕まえるとプールで飼い殺し。自然の中では交雑が進むのが当たり前。自然の中へ出したところで、日本と中国のオオサンショウウオは生態的地位が同じなので、日本の生態系が影響受けるわけではないのにね。
本誌 東京湾で絶滅し、九州で生き残っているアオギスを東京湾へ放流しようとしたところ…「もし東京湾で生き残っていたら遺伝子の交雑が起こり、東京湾の純系が絶えてしまう」と反対の声が上がり、取りやめになったことを思い出します。
池田 その一方、日本で絶滅したトキやコウノトリは中国産を放して復活させた。北アルプスの雷鳥を中央アルプスで繁殖させる復活作戦も進行中。
本誌 観光や経済につながれば、遺伝子は関係ない。
池田 そのとおり。いい加減、ご都合主義と呼ぶ他ありません。イリオモテヤマネコも、大切と思えば、親筋にあたるベンガルヤマネコを今から放しておけば宜しい。交雑で遺伝的多様性が高まり、絶滅に備えることができます。
本誌 渡来から何年経てば、外来種と呼ばれなくなるのでしょう?
池田 モンシロチョウは恐らく江戸時代以前に、コスモスは明治時代初期に入ってきた。今、誰も外来種と呼ばないでしょ。ブラックバスも芦ノ湖に放流されたのが大正末期だから、100年ほど経っている。
本誌 けれど、バスは未だ時間が掛かりそうですね。
池田 外来種が入り、在来種が其れに対応できないと、始めの内は無茶苦茶増えたりする。やがて日本の生態系に取り込まれて安定する。其の一例がアメリカシロヒトリ。
本誌 桜を丸坊主にしてしまう毛虫ですね。
池田 一時は大騒ぎしたけど、今は全く話題になりません。人が退治したわけではなく、シジュウカラが食べ方を覚えたから。
本誌 え!
池田 アメリカシロヒトリは天幕のような巣を作って昼は中に籠り、夜になるとぞろぞろ出て桜の葉を食べる。或る時、何かに追いかけられたシジュウカラが逃げまどい、その天幕に飛び込んだ。すると至る所エサだらけ!大喜びで巣の中の毛虫を食べ、やがて周りのシジュウカラも真似して食べはじめ、それでアメリカシロヒトリは減っていった。そう考えられています。
本誌 初めて知りました。
池田 生態系は「外来種だけの繁栄を許さない」ように出来ています。なにより、多くの生物は新しい世界へ入った途端、絶滅してしまう。空いている生態的地位に入ってきたのが爆発的に増え、徐々に在来の生態系に組み込まれていく。
本誌 ブラックバスは組み込まれ中なのですね。
池田 しかし、なかなか組み込まれない奴もいる。其の一例がアメリカザリガニ。田圃の畔に穴を掘って住むような在来種がいなかった。水が干上がっても死なない。だから爆発的に増えたのです。池の水を抜いても生きてるから、「池の水ぜんぶ抜く」をやると…アメリカザリガニだけ増えるのではないかなあ。アメリカザリガニは最悪の外来種だと思うけど、ブラックバスほど話題にならないね。
本誌 最近「食用として人気のため、中国では増加が抑えられている」とのニュースを読みました。
池田 そう、食べれば美味しい。綺麗な水で1週間とか10日間飼って、泥を抜けばよい。私が一時住んでいた豪州でもアメリカザリガニに近縁の種が「ヤビー」と呼ばれて人気の食材でした。アメリカザリガニもブラックバスも食えば美味いですよ。因みにブラックバスはアメリカザリガニが好物なので、ブラックバスがいるところではアメリカザリガニはそれほど増えない。
本誌 ミドリガメの親、ミシシッピアカミミガメも問題ですね。
池田 在来のイシガメやクサガメ(最近これも外来種と言われている)より強く、獰猛だった。今やカメの7〜8割はアカミミガメ。在来種の卵とかを食べちゃったのではないかなあ。
本誌 ブルーギルも大変でしょ。
池田 不味い。小骨が多くて食べにくい。だから獲る人もいない。
本誌 一碧湖に放流記念碑が立ってました。
池田 繁殖力が強いうえ、日本に獰猛な捕食魚がいなかったので増えた。ブルも何処かで落ち着くと思うけど、しぶといねえ。とはいえ、生態系にそれほど悪い影響がなければ「多様性が増えた」と考えるべきでしょう。中禅寺湖もブラウントラウトはじめ外来種の湖だけど、釣れば楽しい。駆除を唱える人もいない。
本誌 正にご都合主義の極み。
池田 本当なら遺伝子の交雑など大した問題ではありません。けれど、純血種や元々棲んでいた生き物以外認めず、ハイブリッド(雑種)を排撃すれば、コントロールを通じて金が入る。
本誌 正義に見えるから、余計タチが悪い。
池田 純血に拘り続ければ、環境が激変した時に絶滅する可能性がある。遺伝子汚染は、言い換えれば「自分たちとは異なる遺伝子の到来」。交雑した子孫は環境変動に強い。サピエンスがネアンデルタールと交配したのと同じで…その時は「あとで有利になる」と思わず無意識だったろうけど、結果は吉と出ました。
本誌 賀茂川のオオサンショウウオは?
池田 同じ種と思って交配したはず。見た目も日本人がアメリカ人と結婚するより近いでしょ。異なる遺伝子を取り入れることは大切。そのため、異性にときめくフェロモンは遺伝的に遠い人から発せられるフェロモンで…自分から遠い遺伝子に魅力を感じるのです。だから、娘は父親に性的魅力を感じない、兄弟にも感じない。これは遺伝的多様性を増やして絶滅を免れる知恵なのです。
本誌 それでも、遺伝子の交雑を恐れる人たちがいる。
池田 種の保全を考えれば、遺伝的多様性が高い方が有利なのだけれどもね。生きている生物は進化するのに、文化財と同じように「いつまでも同じ状態で保全したい」というのは妄想ですよ。
本誌 神学論争みたいですね。
池田 事故で湧水が枯れた細流から、そこに棲むアブラハヤの絶滅を回避するため、2キロ離れた近くの沢に移動させ、湧水が復活した時に元に戻したら、「交雑が起こるより絶滅させた方がいい」と原理主義者に言われた…とアブラハヤを助けた岸由二が呆れてたな。「ネアンデルタール人と交雑しないで純血を守ったサピエンスは絶滅したんだよ。あんたが存在するのは交雑のおかげなんだよ。何もわかっちゃいねえな」と俺なら言ってやるけどね。
本誌 驚きました。
池田 彼等にとっては、生物の命より自分の原理の方が大切。その一方で、「魚の命を守るために日本から釣りをなくしたい」と言ったり、「虫の命を守るために昆虫採集禁止」と主張したりしている。本当は、偽りの正義を盾に「人の楽しみを邪魔するのが楽しい」のだろうけれどね。
本誌 タリバンみたいな連中ですね。
池田 そう、自分たちが正しいと思うことを全ての人に押し付ける。そして、池の水を抜いて外来種を駆除しても、その先は考えていない。
本誌 彼等が得るもの、目指すものは何でしょう。
池田 最初に話したように、ポスト、名誉、お金。だいたい学会で名を上げようとする人は、若い頃からTVなどに出ません。TVに出る喜び、名を売る満足感が其れを上回るのかな。なにより、無闇とかいぼりすることが間違っている。
本誌 そうなのですか!
池田 「池を干すにも意味がある」こともあるのです。それは「塩害や富栄養化を防ぐ」こと。勝手に乾くと池の底に塩分や栄養分が溜まる。メソポタミア文明は塩害で滅んだ。水を一気に抜けば底に塩分や栄養分が溜まらない。
本誌 NHKの新日本風土記「淡路島」では、瀬戸内海の栄養分を増やすため、かいぼりして池の水を海に流してました。
池田 そう、生態系にとって意味のあるかいぼりはすれば宜しい。
本誌 かいぼりという言葉が再び出たところで、私たちは、へら鮒を国内外来種として駆除する「池の水ぜんぶ抜く」に、どのように対処すれば良いのでしょう。TVに出てくる学者に公開質問状を送れば、効果ありますか?
池田 握り潰すだけかな。たぶん何も返ってこない。それでも、言いたいことを伝えることに意味はあるでしょう。
本誌 ありがとうございます。今日お話を伺い、自然を見る目が少し磨かれた気がします。池田先生も自然を護るため、生物学の発展のため、益々ご活躍ください。

 この記事が掲載された日研ニュース608号を「池の水ぜんぶ抜く」の関係者にお送りしました。
 生態系およびへら鮒について考える機会となってくれれば、嬉しく思います。
 
シリーズ「この人に聞く」第88回 戸面原ボートセンター 相沢 裕之 氏


戸面原ダムボートセンター
相原 裕之 氏




竹岡のヒカリモ




高宕山の看板




駐車場と桟橋を繋ぐリフト




石田島で大型バスとファイト中




石田島で大型バスを釣りあげる

   へら鮒釣りとバス釣りの共存。前回に続いて、三島湖、豊英湖と並ぶ房総半島の名釣り場、戸面原ダムの相沢裕之氏。此処でもへらとバスと、共に好調です。(聞き手:吉本 亜土、文中敬称略)
本誌 早速ですが、お生まれは?
相沢 昭和44年。正に地元、戸面原ダム(昭和53年竣工)のある富津市豊岡。今も直ぐ近くに住んでいます。
本誌 大阪万博の前の年ですね。初めての魚釣りは?
相沢 ダムが出来る前、小学生の頃、西川渕(ボートセンターから左手上流へ漕ぎ上がった右側)でハヤを釣ってました。ヤマベも釣れた。
本誌 そうか、当時は湊川が流れていたのですね。道具やエサは?
相沢 最初は爺さんに、近くに生えてる布袋竹で竿を作ってもらった。エサはミミズや川虫。
本誌 釣りキチ三平みたいです。現在のダムを見ていると川虫のイメージは湧きませんが…。
相沢 今も上流の川へ行けば沢山います。戸面原は結構奥が深い。
本誌 上流はどうなっているのですか?
相沢 実は豊英湖と背中合わせで、直線距離なら意外と近い。湊川は豊英湖の近くから流れ出し、戸面原ダムを経て富津市の上総湊へと注ぐ。上流には今もハヤやヤマベがいます。降りていく道はあるから、川釣りは可能でしょう。
本誌 アユは?
相沢 現在はいないけど、ダムが出来る前は東京湾から沢山上がってきました。湊川を遡上するアユ、放流されたアユ。爺さんは「竹で水面を叩くとアユが岸に飛び出す」と言っていた。ウナギもカニもいました。
本誌 そういえば、今もダムへ来る途中「モクズガニ」の看板を見ますね。ところで、上総湊は昔、天羽(あまは)と呼ばれていませんでしたか?
相沢 そうです。天羽町。今でも富津市の中に天羽地区として名が残っています。
本誌 私、小学生だった昭和30年代後半、東京湾口に近い館山で臨海学校があり…東京の竹芝桟橋から東海汽船の橘丸で向かう途中、船が天羽港に寄港したのです。海が透き通っていたのを覚えてる。
相沢 当時は綺麗だったでしょう。
本誌 磯も豊かでしたね。自然観察の日、色彩に富んだタイドプール(潮だまり)にゴンズイが2匹泳いでいたのも覚えています。そうそう、先日ダムでの釣りを早めに上がった後、その天羽地区で左折して館山方面へ少し走り、竹岡へ寄ってきました。
相沢 何かありますか?
本誌 国の天然記念物「竹岡の光藻(ヒカリモ)」。藻が光るんです!但し、本体が発光するわけじゃありません。4月から5月にかけて、単細胞の小さな藻が成熟して水面へ浮上する。すると、藻の中にあるレンズに似た部分が日光を反射し…水面が金粉を撒いたように輝く。小さな洞窟で光ることから、地元では「黄金井戸」と呼ばれています。
相沢 黄金井戸、知ってます。けど、行ったことはない。
本誌 大日如来や弁財天も祀られ、信仰の場でもあるようですね。横には国道127号線が走ってるし、正直半信半疑だったのですが、ホントに水面が光っていて驚いた。竹岡のヒカリモ、日本最初の発見地として昭和3年、天然記念物に指定されました。是非、行ってみてください。
相沢 来年行ってみます。亜土さん、釣りのついでにいろんな所へ寄るのですか?
本誌 そうです。往復の途上、重要文化財の寺社や天然記念物を見るのが好き。野釣り場の周囲は大概自然豊かで…戸面原ダムに現れるサルも、湊川の水源である高宕山(たかごやま)の天然記念物「高宕山のサル生息地(註:海抜315mの高宕山を中心に南北4キロ・東西2キロ、富津市富岡〜君津市平田一帯の房総丘陵に20〜100頭からなる群れが10数群棲息している。ニホンザルの群れとしては大きく、比較研究の対象としても学術的価値は高い…として昭和31年、国の天然記念物に指定された。一方、居心地が良いのか、千葉県のHPによれば高宕山と清澄山を中心に房総半島全体での棲息数は数千頭に及び、富津市・君津市ではサルの被害に悩まされている)」から来たものでしょう。ところで、相沢さんの其の後の釣りは?
相沢 昭和53年にダムが完成し、中学ではコイのぶっ込み、高校から社会人では向田(むかいだ。ボートセンターの上流、西川渕へ向かう途中の左側)のワンドへルアーを投げてブラックバスを釣ってました。
本誌 常に釣りと共にあったのですね。その後は?
相沢 海でクロダイ。上総湊でぼちぼち釣れます。堤防からのダンゴ釣りで、一本バリに付けたオキアミを寄せエサのダンゴで包んで打ち込む。
本誌 成績は?
相沢 最高は一日に30〜40pを20枚。
本誌 スゴイ!味は如何でした?
相沢 時期によって脂が乗っていて美味しい。やっぱり春先かな。
本誌 産卵前の乗っ込み。桜鯛と呼ばれるタイと一緒ですね。そして今は?
相沢 カワハギです。金谷や上総湊から出船して竹岡沖を釣る。横浜方面へ行くこともある。
本誌 エサは?
相沢 マルキユーの冷凍アサリ。
本誌 え!冷凍物で釣れちゃうのですか!私、スーパーで剥き身を買ったり、熱心な人は前の晩に殻から剥くと思ってた。
相沢 生のアサリと全く遜色なく釣れちゃう。冷凍で十分。自分で持参すれば、舟宿支給の冷凍アサリより鮮度も宜しい。マルキユーのアサリ、凄くいいです。
本誌 初めて知りました。さて、カワハギは難しい、だから面白いと聞きます。
相沢 そのとおり。口が小さいから食わせるのが難しい。エサの付け方次第で、エサだけ取られちゃう。
本誌 仕掛けは?
相沢 ハギバリの5号。カワハギには歯があるし、フグもいるからハリスは2号。
本誌 当然、フグも来ますよね。
相沢 フグとの闘いになることもあります。10〜40m海底の根を釣るため、掛かりも厳しい。
本誌 成績は?
相沢 最高で50匹、最大で35p。
本誌 スゴイ!
相沢 釣った魚は自分でさばいて、煮つけや肝和えの刺身で食べます。とても美味しい。但し、最近は釣れない。始めた時より釣れなくなった。獲りすぎかなあ。
本誌 厳しい排水規制で「東京湾が綺麗になりすぎたから」という説がありますね。生活排水が適宜流れ込まないと、魚のエサとなるプランクトンも湧かない。瀬戸内海や大阪湾でも同じ現象が起こっているそうです。
相沢 上総湊を見ていても確かに綺麗になった。しかし、綺麗じゃなかった時の方が釣れた。
本誌 自然の管理は容易じゃありません。誰もが「透き通った海こそ一番」と信じていたのですから。ところで、カワハギをやってるとウマズラハギも釣れますか?
相沢 「カワハギより美味しい」という人もいるウマズラ、今はあまり釣れません。此の辺りだと館山には少しいるみたいだけど。
本誌 ウマズラは珍しいのですか!驚きました。私、カワハギ釣りにとって、キス釣りのメゴチやトラギスと同じく「ああ、来ちゃった」の魚だと思ってた。他の釣りの話も楽しいですね。さて、戸面原ダムについて伺いたいと思います。此のダムは農業用水ですよね。
相沢 そうです。だから、夏場に田圃で使うと大減水する。もちろん漁業権はなく、千葉県や富津市と湖面利用を契約しています。
本誌 「貸ボート屋さん」としての扱いですね。
相沢 そうです。放流についても、ダム完成時には「万一毒が入った時に分かるため」と聞く義務放流があったけど、現在は「貸ボート屋が放流している」形。
本誌 そして、戸面原ダムの釣果は連日20〜30キロ超。好調を維持しています。最近の放流量は如何ですか?
相沢 去年5トン+5月22日の土曜日に1トン超を追加。計6.5トンほどになります。
本誌 昔は?
相沢 14年前にボート屋を継いだ当時は6〜7トン入れました。その後例会が減って、お客の数も減って…放流に回すお金がなく、3トンほどになっちゃった。
本誌 厳しい時代があったのですね。
相沢 引き継ぐと決めた時、周囲は止める人、応援する人、様々でした。
本誌 確かに勇気の要る決断だったと思います。
相沢 それまで近場で普通に働いていたのが、いきなり舟宿でしょ。今は此処で一緒に朝御飯を作ってくれる妻も、仕方なくついてきた。
本誌 始めた時の印象は?
相沢 こんなはずではなかった、エライコトになったと思った。それまで体力勝負のサラリーマンだったとはいえ、朝早く起き、お客の朝御飯を準備し、終了後はボートを洗う。身体が大変でした。
本誌 毎日ですものね。
相沢 直ぐ慣れたとはいえ、最初から「木曜定休」にしておいたのは正解。
本誌 そんな日々が順調に…
相沢 続きません。継いだ当初こそ、120杯のボートが全部出ることもあったけど、段々と下り坂。例会が減っていく。参加人数も減っていく。「若い人がいない」と感じていたけれど、年毎に姿を見せない人=亡くなる人が増えていく。
本誌 日研の大会や会議でも同じことを感じます。
相沢 高齢の人はバスでしか来られない。しかし、会員数減少でバス例会ができない。そのための解散も見てきました。
本誌 舟宿の経営者として、肌で感じますね。
相沢 継いで4年ほど経った頃、体力大変から経済大変へ変わった。予想より早かった。今から4年前がどん底でした。
本誌 日銭商売でお客が来ないのは辛い。
相沢 100杯ある舟がろくろく出ない。雨が降るとフリーの人は来ない。日曜日でも60杯が最高、平日はゼロも日さえあった。
本誌 お話を伺うだけで胸が痛みます。
相沢 そんな状況を救ってくれたのがブラックバス。3年前の平成30年10月、バス釣りにボートを貸すことを決断し、大きく変わりました。
本誌 解禁前も勝手にバス釣りしてたでしょ。
相沢 そうです。フローターやマイボートが来ていた。けれど、放っておくと押さえが効かない。どんどん増えちゃう。そのため「悪いけど、へらの人がいるから出て行ってね」と声を掛け、上がってもらいました。
本誌 そんな努力を重ねておられたのですか!
相沢 幸い、怖い思いをしたことはありません。
本誌 バスボートは何処から入っていたのですか?
相沢 中島ワンド(桟橋から右手へ漕いだ先)、トンネルワンド(桟橋から左手へ漕いだ奥)あるいは向田の辺りから入れていた。休みの木曜日にも船外機で回って追い出してました。
本誌 そんな排除の対象が「お客様」に変わった。
相沢 そうです。経済的危機を前に「此れしか道はない」と決意した。
本誌 結果は「吉」と出ましたか?
相沢 おかげさまで当たった。現在、へら鮒釣りのことを考え25艇に制限しているけれど、制限しなければもっと来ると思います。
本誌 25艇なのですね。
相沢 へら鮒釣りとの関係だけでなく、あまり舟数が増えると「スレて釣れなくなる」のです。なにしろ放流禁止の魚だから、大切にしないと続かない。
本誌 なるほど。其処まで考えておられるのですか。釣り人同士の関係から見れば「バサーは気持良い人が多い」「おしゃべりして楽しい」印象ですが…。
相沢 そう仰っていただけると嬉しい。
本誌 私、バサーが近づいてくると必ず声を掛けるし、迷惑と思ったことは一度もありません。ただ…
相沢 ただ…?
本誌 手漕ぎボートだけは気に掛かる。あれがキイコキイコ来ると、アタリが止まるような気がする。此処では手漕ぎも貸しているのですか?
相沢 そうです。ボート全長が12ft以上の場合、エレキを付けると小型船舶免許が必要で、その免許を持っていない人は手漕ぎボートで釣ることになる。
本誌 なるほど。
相沢 加えて、バスはエレキのモーター音に反応し「警戒して釣れなくなる」とも云われています。手漕ぎの場合、バスが安心するらしい。
本誌 驚きました。私たち「へらはオールのキイコキイコで釣れなくなる」と信じているのに…バスは逆!しかし、手漕ぎは両手が塞がってるでしょ。どうやって釣るのですか?
相沢 舟を止め、そこからキャストする。但し風に弱い。風の日は舟が流されるため、手漕ぎでは釣れません。
本誌 なるほど。いちいち立ち上がるのも大変そうですね。
相沢 ボートが11ft以下の場合、エレキ使用のための小型船舶免許は不要。但し、現在のところ、此処は12ftしか置かず、免許を持ってる人だけに舟を貸しています。
本誌 1ft(30p)の差で免許の要不要が決まるのですね。さて、そんなバサーのへら鮒釣りに対する意識は如何ですか?
相沢 此処に来るバサーは「へら鮒釣りの軒先を借りている」と理解し、気を遣ってます。加えて出舟前(へら鮒より10分遅れ)に必ず、私から「へらの人に近寄らない」「移動時には引き波を立てない」ようお願いしてる。おかげで、バサーとへら鮒がやり合った話は聞きません。たとえ、へらの人に怒られても「スミマセン」で去っていくでしょう。
本誌 良かったです。なにより、バスのおかげで舟宿の経営が成り立つ。へら鮒釣りを続けることが出来る。相沢さんの決断とバサーに感謝する他ありません。そんな状況の下、現在の売上は?
相沢 へらとバス、半分半分ですね。
本誌 もっとバスが多いと思ってた。
相沢 へら鮒の売上も決して少なくありません。放流を続けているからでしょう。「戸面原は釣れる」と評判になり、日曜例会が来てるし、フリーの個人客も来てるし、4年前のどん底から盛り返しました。
本誌 私は此処の朝御飯も好きです。なるべく舟宿で食事して売上に貢献したいし、コロナ禍が去って、再開されるのを楽しみにしています。但し、盛り返した分、忙しいのではありませんか?
相沢 いくら木曜定休とはいえ、サラリーマン時代と異なり、休みがなくなったのは大きい。旅行など行けない。好きじゃなきゃできません。
本誌 舟宿の仕事が大変なことはよく分かります。となると、舟代が安すぎるのでは?今、戸面原はバスもへらも3000円でしょ。私が日研に入った40年前、舟代は何処も1500〜2000円したと思う。キツイ労働+休みなしで一日3000円は、大人の遊びとして果たして適切な対価か…。
相沢 確かに「高い」とクレームする人はいません。安いという人はいるけど。
本誌 経済的にも報われるようになって欲しいと思います。ところで、バサーには例会とかあるのですか?
相沢 日曜日など「仲間で25艇貸し切り」の日もあります。終わってから表彰式やってる。
本誌 若いですか?
相沢 若い若い、自分より若い。
本誌 舟宿がバスとへら鮒を両方やることで、バサーがへら鮒に興味を持ってくれるといいですね。
相沢 おじさんがイレパクする姿を見て「今度やってみようかな」と言う人もいますよ。
本誌 嬉しいですね。但し、へら鮒は道具の敷居が高い。スキーもレンタルになった時代、初めての人のために竿や仕掛けは舟宿や管理池でレンタル、エサも舟宿や管理池が小分けして売ってくれれば…と思うことがあります。とはいえ、道具はバスも高いのでは?バサーと話すと「リールと竿の1セットで5万は超える」由。此れを何本も揃え、エレキや魚探の機器類もあるのでしょ。
相沢 そう、台車に乗せて運ぶほど。加えて、へら竿と違って落とせばそれまで。竿もリールもダムには沢山沈んでると思います。
本誌 ところで、バスは新規の放流が難しい。リリース禁止の所さえある。釣ったのを再放流するだけで…どうやってバスの資源を維持しているのですか?
相沢 此処は幸いリリース禁止ではありません。但し、バスとずっと遊べるよう、たとえエアポンプを付けても、容器に魚を入れて桟橋へ持ち帰ることは禁止。
本誌 初めて知りました。では、どうやって競技するのですか?
相沢 長寸ゲージにバスを載せて写真を撮るのです。最初に参加者全員で「其の日共通の写真」を撮ってから競技スタート。
本誌 なるほど、共通写真から後が「当日の釣果」になるのですね。
相沢 そうです。写真の結果を総合して順位が決まる。
本誌 やはり釣られれば、バスといえども傷むのですね。
相沢 3年前に解禁した時は爆釣。バサーにとって夢のような場所でした。3年経った今、先は楽観できません。自然繁殖はしている。但し、そのチビが何処まで大きくなるか。
本誌 幸い「バスを放せば小魚全滅」でもないことが理解されてきました。此処でもヤマベが釣れる。生態系の安定を感じる。バスとへらが平和共存し、バスの売上がへらの放流に回ることを願ってやみません。
相沢 バサーもへらの人から話しかけるのが嬉しいみたい。上手にコンタクトを取ってください。
本誌 そう、こちらもおしゃべりしたいです。ところで、此れからのバスのポイントは?
相沢 本湖ですね。落合(桟橋の対岸)、石田島(センター上流のオダ。へらの例会で優勝者のよく出る名ポイント)、前島(石田島手前)、光生園下(本湖から上流水路への接続部)。やはり深場が釣れる。
本誌 へらのポイントと一緒だ!
相沢 だからこそ、仲良くしてください。同じ釣り人同士、トラブルなしに楽しくやっていきましょう。
 
シリーズ「この人に聞く」第87回 三島湖舟宿組合組合長 石井 時保 氏


石井 時保 氏




石井の桟橋に並ぶバスボート




桟橋へ降りる階段とリフト




階段の上に並んだ道具類






1個25キロのバッテリーと台車




出舟準備のバサー、背景は奥米橋

   今回のテーマは「へら鮒釣りとバス釣りの共存」。房総半島の名釣り場、三島湖でもバスボートを見かける機会が増えました。増えたどころか…バスボートの方が多いんじゃないかとさえ思える。此の4月から三島湖舟宿組合の組合長に就任された、舟宿「石井」の石井時保(ときお)さんにお話を伺います。(聞き手:吉本 亜土、文中敬称略)

1 石井 時保 氏と舟宿「石井」
本誌 早速ですが、お生まれは?
石井 昭和36年、三島湖で生まれ育ちました。
本誌 では、小学校は三島小学校。
石井 そうです。今は清和小学校に統合されて廃校になっちゃったけど、私の頃は全校合わせて150人程いた。
本誌 日研の夏季大会、表彰式会場として体育館を使わせていただきました。ところで、三島湖(昭和30年、小糸川を堰き止めて三島ダム竣工)の舟宿は「石井が一番古い」と伺っています。
石井 そうです。私の父、石井公一が57年ほど昔、自宅に近い三島湖上流の夫婦橋で開業しました。
本誌 東京オリムピック(昭和39年)の頃ですね。
石井 そうです。但し貸舟はなかった。
本誌 舟を貸さない舟宿?
石井 海の漁師から中古のポンポン蒸気を買い、5人10人と乗せ、陸路では行けない釣り場へ送迎していました。
本誌 湖面を行くポンポン船。長閑な景色が目に浮かびます。
石井 とはいえ、夫婦橋の下まで急峻な山道を降りていくのが大変だったそうです。やがて、佐原から木製の和船を5杯ほど買い、岸辺に貸舟として並べました。
本誌 その後は?
石井 三島湖は農業用水のダムでしょ。そのため、夏場に田圃へ給水すると大減水となり、上流に位置する夫婦橋は不便でたまらない。大阪万博のあった昭和45年頃、現在の奥米橋の際へ移動しました。
本誌 開店そして移動。先見の明と決断力に富むお父様だったのですね。
石井 但し、見ても分かるとおり、此処はポイント的に不利。父は何時も「他の舟宿は深場の下流や変化に富んだ上流に釣り場が広がっている。一方石井は見える範囲しかポイントがない」と言っていた。このポイントの弱さは、後々に至るまで石井の悩みとなります。
本誌 ところで、石井さんにとって最初の魚釣りは?
石井 小学生の頃、ご飯粒をエサに店の前でヤマベ釣り。次はサシでのワカサギ釣り。当時は冬になると、店の前に結構厚い氷が張ったんです。氷の上に乗った記憶さえある。
本誌 地球温暖化の今では考えられません。他の魚は?
石井 ダムが出来た時、フナやコイの他にウナギも放したんだね。ハリにザリガニつけて一晩ぶら下げると掛かる。子どもの頃、ちょいちょい釣っては食べてました。
本誌 三島湖でウナギ!
石井 けれど、ダム湖だから海へ産卵に行けない。戻ってもこられない。釣ってしまえばオシマイで、その内いなくなっちゃった。
本誌 小学生だった昭和40年代、へら鮒釣りの様子は如何でした?
石井 日曜が来る度、小学生の私が店を手伝ってました。
本誌 三島湖がブームとなっていく時代ですね。

2 最盛期の繁盛
石井 そうです。当時、三島湖には舟宿が5軒。舟は合わせて800杯ほどあったけど、日曜例会は予約を取るのが大変。150杯の石井にも観光バスが3台4台とやってきた。雨でも台風でも賑わいました。
本誌 繁盛ぶりが目に浮かびます。
石井 母が朝御飯と弁当の支度を一人でやっていた。奥米橋の舟宿の2階、夫婦橋近くの自宅2階に釣り客を泊めていて、20人ほどが雑魚寝。布団干しも浴衣の洗濯も母の仕事で…大変だった姿を見ています。舟の掃除も父母と私の3人でやった。父と一緒に曳船にも乗った。そうそう、1時半にはお客が来たの。店の人間が起きる前、懐中電灯で桟橋を照らし、先端の舟に荷物を置いていく。
本誌 今では考えられない光景です。
石井 夜中に起こされ、朝御飯を運んだりするのを手伝いました。店の中は煙草の煙でもくもく。お酒飲んで盛り上がるどころか、釣りにならないくらい飲んじゃう人もいた。
本誌 私が三島湖へ初めて行ったのは昭和55年ですが、当時も朝からお酒の人は珍しくなかった。出舟の時など殺気立っていて怖かった。「此の世界でやっていけるのか」と思いました。
石井 他に趣味のない、へら鮒釣り一本の人が多かったからかなあ。
本誌 そんな状態で、お母さまの身体は大丈夫だったのですか?
石井 いや、日曜日だけが極端な混雑だったの。週休2日制が普及していなかった当時、土曜を含めて平日はガラガラ。だから出来たんです。
本誌 昭和50年代後半でも、土曜日は確かに空いてました。
石井 平日来るようになったのは、週休2日に加えて年金生活が増えた最近のことです。
本誌 加えて当時は舟数が多かったこともあり、釣れなかった。日曜日などポイントを外すとオデコの危険さえあった。そのため、真っ先に飛び出せる、桟橋突端の舟の確保に拘ったのでしょう。
石井 そう、当時日曜例会の優勝は精々3キロ4キロ。
本誌 昭和50年頃の記録を見ても、平日例会で優勝10キロ前後。日曜日が釣れなかったはずです。
石井 三島湖が釣れるようになったのは途中から。「例会で20キロ釣れるようにしようや」を合言葉に舟宿1軒あたり200万円、5軒で1000万円を集め、全放協への委託と舟宿の自主発注で年間20トンの放流を続けました。
本誌 其のおかげで昭和50年代後半から釣果が急速に伸び、今があります。そして石井さんの其の後は?
石井 高校卒業後は東京へ出て建築の道へ進み、マンションの設計とかを46歳頃までやってました。
本誌 三島湖から離れたのですね。
石井 日曜日などは手伝いに帰り、父と手分けして舟を曳くこともありました。今年が還暦で、此処へ戻って舟宿を継いでから14年になります。
本誌 ところで、三島湖は誰が所有しているのですか?
石井 千葉県が築いた農業用水のダム。各舟宿が君津市を通じて、千葉県から桟橋の占有許可(桟橋を造って舟宿を営業する許可)を頂いています。合わせて湖面管理も任されている。
本誌 舟宿を経営できるのは此の土地の人だけですよね。
石井 ダムに沈んだ小糸川の周辺に住み、畑や田圃を持っていた人たちです。漁業権はないし陸釣りは誰でも出来るけど、舟宿の経営は難しいでしょう。
本誌 そして、農業用水の宿命とはいえ、夏になると大減水してしまう。
石井 そうです。東京湾に面した富津の先の田圃まで、三島湖が面倒みているためです。
本誌 「上流の豊英湖が助けてくれれば良いのに」と何時も思うけど。
石井 豊英は千葉県が新日鉄君津製鉄所のために造ったダム。新日鉄が水の再利用可能なプールを造り、高炉の数も減った現在、水の需要は一時ほどではないはずだけど…製鉄以外の目的で水を落としてもらうのは簡単ではありません。
本誌 豊英を見ていると夏場でも満水。
石井 そう、千葉県の農業部門と工業部門で遣り取りがあり、この7月8月は水を援助してくれるはずです。去年は6月に田圃の需要が増えて三島湖が大減水となり、といって豊英から水を流してもらえず、一気に10m減水しちゃった。梅雨に入ってことなきを得ました。毎年、梅雨が明けると簡単に10m減水してしまうのが三島湖です。
本誌 ダムと云えば、老朽化に伴う堰堤工事の将来が見えず、三島湖へのへら鮒放流が止まっています。日研ニュースで最近の放流状況を見ると、平成29年の4.118トンの後は平成30年、令和元年が共にゼロ。昨年の令和2年に全放協から0.15トン、日研から同じく0.15トン。3年合わせて0.3トン=300キロ。三島湖にしてはやや寂しい状況です。
石井 ワカサギの放流も止まってる。ダムの堰堤工事に3年は掛かるそうで「本格的放流は工事が終わった後で考える」ことになってます。
本誌 一方、舟宿は2年続けて小べらの放流を続けてくれている。
石井 そう、養魚場の人も「1年あればどんどん育ちますよ」と言ってます。
本誌 現在、エサ打ちすると水面でヤマベが盛んに跳ねる。理事長の遠藤が「ブラックバスはエサとなる水生動物との共存関係で生息数が決まる宿命を負っている」「バスの資源量(生息数)は安定期に入った」と言っているとおり、三島湖においても共存可能な環境が生まれつつあるのでしょう。自信を持って放流を続けてください。小べらが残って育つことを願ってやみません。
石井 小べらの放流について理解くださり嬉しく思います。ただ…正直なところ、今後のへら鮒放流はゼロにはならないだろうけど「お客の動向に掛かっている」面がある。
本誌 分かります。売上を期待できないところに投資はできません。私たちも「釣れないから行かない」ではなく「釣れるようにするため行こう」が大切。とはいえ、放流してない割には釣れますねえ。最近の釣況を見ても、5月27日、イーグルへら鮒会の優勝は豚小屋で41枚32.1キロ。6月1日も竿頭は鳥小屋で74枚。3年間300キロで、此の数字はスゴイ!
石井 但し、今は上下の差が激しいかな。百戦錬磨のへらが多いため、平均して10キロ20キロは釣れない。食いが悪かったり、日曜日に並んだりすると苦戦します。
本誌 そう仰いますが、今日も12杯並んだ豚小屋、コーラ感嘆とオカメのセットで10時半までに良型中心に15枚釣れた。その前5杯の入釣だった時は、同じ10時半までに26枚。三島湖は底力があります。
石井 ありがとうございます。とはいえ、ワカサギを見ていると、放流量と釣果は明らかに直結している。諏訪湖から1箱に100万粒入った卵を買ってくるのですが、10年前の30箱3000万粒の時は一人あたり200〜800匹と釣れていた。それを10箱1000万粒に落とすと釣れない。
本誌 生態系が安定したとはいえ、バスがどれだけ食べるか、ワカサギがどれだけ残るかなのですね。
石井 バスが入る前は放流しなくてもワカサギが釣れました。しかし、三島湖にバスを放流した記録はないのですよ。
本誌 昔は秘密放流とか言われたけど、最近の研究では「鳥が水草と一緒に魚の卵を食べる。鳥は飛んでいった先の湖沼に糞をする。消化を免れた卵が其処で孵化する」形で魚の棲息範囲は広がるそうです。そして、現在の三島湖はバス釣りに支えられている。

3 バス釣りへの転換
石井 そう、石井があるのはバス釣りのおかげ。先ほどお話したとおり、此処はポイント的に不利でしょ。石井には数より型を求める人が多く、Cロープの底釣りは大きいのが釣れると人気だけど、其処も夏には丘になっちゃう。
本誌 へら鮒は下流の深場へ落ちてしまいます。
石井 そのため最盛期の頃も、他の舟宿で舟が取れなかった会と昔馴染みのお客に支えられていました。それが、釣り会の減少と高齢化で殆ど来なくなってしまった。
本誌 企業努力の範囲を超えていますね。
石井 今年に入って石井を使ってくれた会は、ドボ健さんのいる日研文京をはじめ3つだけ。
本誌 驚きました。それは辛い。
石井 フリーの個人も高齢化とコロナで来ません。野釣りの衰退を感じずにはいられない。若い人は何処へ行っているのですか?管理池?
本誌 管理池の方が明らかに客層は若い。そして「フラシを持っていない人さえいる」と聞きます。
石井 管理池の魅力は何でしょう?
本誌 私が考えるに…まず、管理池は費用的にも時間的にも野釣りより手軽。8〜9尺1本で一年中ウドンセットという人もいるそうです。そして、野釣りは一場所二場所の面があるけど、管理池は腕の勝負になる。私は「マグレのある野釣りが好き」だけど「直ぐに浮子の動く+場所が悪かったの言い訳が効かない+勝負の緊張感に満ちた管理池が好き」という人も多いでしょう。なにより、管理池にはメーカー主催のトーナメントがあります。毎月の例会を積み重ねて年間優勝しても、残念ながら昔ほどの評価はない。しかし、トーナメントで勝てば雑誌に大きく取り上げられる。その魅力は大きいと思います。
石井 なるほど。
本誌 ところが、トーナメントがへら鮒釣りの裾野を広げたかというと…私はドウカナと思うのですよ。トーナメントに熱中してるのは200〜300人程度と云われています。しかも上位を争う人は限られている。その一方で野釣りから若い人を遠ざけたとなると、期待する程の効果が果たしてあったのか。何処の舟宿でもお客の高齢化は深刻です。
石井 なるほど。
本誌 メーカー主催の三島湖大会に何百人と集まり、優勝者が雑誌で大きく取り上げられたら…と思うことがあります。事故のリスク、参加者の管理など様々な問題はあるけれど、何処かのメーカーが大野釣り大会を企画してくれないものか、優勝者が最高の栄誉に包まれないものか。私の願いです。ところで、石井さんはへら鮒釣りの減少とバス釣りの人気にどのように対応されたのですか?
石井 バス釣りは徐々に増えていきました。
本誌 最初は勝手に入ってきたのですよね。
石井 そうです。車が降りられる長倉台などから、フローターやバスボートで入ってきた。
本誌 追い出したりはしなかったのですか?
石井 勝手に舟を入れるのは三島ダムの禁止事項かもしれない。但し、それはダム管理者の千葉県が追い出すべきで、車が降りられないよう柵を作ったりするのが本筋でしょう。
本誌 分かります。
石井 千葉県との協定書を見ても、舟宿による湖面管理はゴミ収集などに留まり、バスボートに退去を求めることまでは含まれていません。夜中にバスボートを浮かべてる人を見つけ、警察呼んで注意したことがあるけど、これはあくまで危ないから。夜中に石井の桟橋で釣ってる人が居て、出て行ってもらったことがあるけど、これもあくまで危険+不法侵入だから。バスボートに対しては黙認の状態が続きました。
本誌 そしてバス釣りを正式解禁。
石井 4年前の平成29年11月17日、三島湖はバサーへの舟の貸し出しを始めました。
本誌 当時を振り返って如何ですか?
石井 実は、私の父は「お客が減ってるし廃業かなあ」「私が死んだら廃業かなあ」と言ってました。そして、父が世を去った平成29年、廃業を考えた。
本誌 私「石井廃業」の情報を聞いて驚きました。
石井 そう、へら鮒のお客は全く来ないし、平成29年を最後に店を閉めるつもりだったのです。しかし、バス解禁となり「ちょっとだけやってみようかな」と思った。
本誌 その結果は?
石井 当たりました。
本誌 良かった!私は「舟宿が釣り場を守ってくれている」「舟宿がなくなれば釣り場が消える」と思ってます。バスのおかげで三島湖のへら鮒釣りが続く。舟宿の英断に感謝する他ありません。そして、現状は如何ですか?

4 バスボートの繁盛
石井 最も大きかったのは、石井の悩み「ポイント面での不利」を克服できたことでしょう。
本誌 なるほど、エレキで動くバスボートは移動が自由自在!
石井 そう、バス釣りならサービスの面でお客を呼ぶことが出来るのです。例えば、バサー=若い人と思うでしょうが、決してそんなことはありません。石井に来るバサーの最高齢者は75歳。20〜30代ならともかく、40〜50代になると1個25キロのバッテリーを運ぶのは大変。
本誌 私も桟橋で持ってみましたが、あれを車から運ぶのはキツイ。
石井 昔は店から桟橋までの階段が急で、それが辛くてお客が離れた。バッテリーについて、水平運びならともかく、上へ下へ運ぶとなると苦情が出るのです。一度来てオシマイの人も少なくなかった。
本誌 その階段を改善したのですね。
石井 そうです。なだらかなスロープにして、重い荷物を運ぶリフトもつけたら、三島湖での評判が急上昇し…お客がやってきたのです。昔は4〜5艇だったのが、毎日15〜20艇出るようになった。バスは投資の甲斐があります。
本誌 となると、現在石井の売上の多くはバス釣り。
石井 殆どと云って良いでしょう。
本誌 おお、殆どですか!
石井 加えて、へら鮒釣りは放流バッジの割引があるから2千5百円。一方、バスボートは一人乗り3千円、2人乗り4千円、3人乗りは5千円。その半分に湖面を移動するためのエレキも貸しているから…一人乗りに足で動かすフットコンエレキ1機(3千円)とバッテリー2個(2千円)をつければ8千円。パワーのある高性能エレキ(5千円)なら1万円。
本誌 驚きました。へら鮒釣り4杯分!
石井 バサーは8千円や1万円を許容してくれます。三島湖は各舟宿ともバスボートを20艇に抑えていて、石井も同じく20艇ですが…その半分にはエレキとバッテリーがついている。「竿さえ持ってくれば釣れます」が石井のアピールポイント。おかげで蘇りました。
本誌 良かったです!舟宿で景気良い話を聞くことが減っているので、殊に嬉しく思います。とはいえ、投資は大変だったでしょう。
石井 安くありません。殊に高性能エレキなら新品で30万円を超える。
本誌 え!
石井 だから借りてくれるのでしょう。そして、舟宿が通常持っているレンタルエレキはパワーが弱くて遅いため、高性能エレキに人気が集まる。将来的には増やしていきたいと考えています。
本誌 今日は初めて聞く話ばかりです。三島湖の各舟宿が20艇に抑えているのも、経営判断からですか?
石井 そのとおり。ボートを増やすと、バスがスレて釣れなくなる。そしてお客が離れていく。三島湖はそうなりたくありません。
本誌 バスは大型を狙うのですよね。
石井 そうです。へらは数釣れて当たり前だけど、バサーは大きいのが1本釣れればよい。さすがに60オーバーは滅多になく、石井でも解禁以来1〜2本しか出ていません。50pが基準。「50オーバーが1本来れば嬉しい」のがバス釣りです。
本誌 そうなのですか!へらを釣ってると、ボートの下に大型バスが居るのは珍しくないどころか毎度のこと。こぼれエサを求めて小魚が寄り、小魚を求めて大型バスが寄るのでしょう。私、バサーとおしゃべりするのが好きで…必ず「此処に投げてごらんなさい」と声を掛ける。高確率どころか大概一発で釣れて、大いに喜ばれます。
石井 そう、釣れるんです。ところが上級者やプロはそれをやらない。
本誌 え!
石井 それは「へらパターン」と呼ばれる。へらの釣り人と仲良くしてボートの近くで50p釣っても、尊敬されない。
本誌 初めて知りました。とても喜んでくれて、我がことのように嬉しいけど。
石井 へらのボートが15時頃上がった後に投げても釣れる。寄ってる桟橋の陰に投げても釣れる。初めての人が其れでバス釣りを好きになってくれるのは大いに結構ですが…本当のバサーは嫌う。何もない場所で釣ってくるのが名誉なんです。
本誌 奥深い世界ですね。さて、バスは放流できません。三島湖はどうやって其の資源を守り育てているのですか?
石井 自然繁殖に期待する他ありません。そのため、大切なバスが傷まぬよう、釣った魚をエアポンプを付けた水箱に入れて桟橋へ持ってくる「ライブウエル」は禁止。アメリカのトーナメントとか、優勝者が大きなバスを高々と掲げるでしょ。あれはダメ。釣果の記録は現場での写真に限ってます。
本誌 へら鮒の現場検量以上ですね。
石井 但し、三島湖は産卵時期から水が減っていくのが辛い。桟橋周辺に産んでくれれば良いけど、岸辺に産卵すれば卵が干上がってしまう。
本誌 もっともです。
石井 バスの稚魚が沢山泳いでいるので、まあ繁殖率は高いみたいですが、ワカサギとかの大量放流で資源を維持する必要があるでしょう。三島湖は冬場の釣りがないので、ワカサギが有効かもしれません。

5 へら鮒釣りとの共存
本誌 バスの売上げが伸びて舟宿の健全経営が続けば、へら鮒釣りの維持にも役立つ。バス釣りの隆盛に感謝です。
石井 もちろん、へら鮒釣りを軽視しているわけではありませんよ。三島湖にとっては同じく大切なお客。「工事終了後、放流量を前の4〜5トンには戻したい」と考えています。
本誌 ありがとうございます。
石井 但し、高齢化の中でどれほどの人がへら鮒釣りに来てくれるかは大切。
本誌 よく分かります。
石井 例会が減った現在、50代60代までの個人に三島湖へ来ていただくにはドウスレバ良いか。共に考えなくてはいけません。
本誌 本当は例会を行う釣り会が大事ですね。小山圭造さんも「例会は10人が10人じゃない。試釣に来る。雨が降っても例会は来る」と仰ってる。だからこそ、例会の集まりでもある日研は大切。
石井 けれど若い人の例会離れと云われ、野釣りの例会はどんどん減ってるでしょ。
本誌 「人間関係、上下関係に縛られるのがイヤ」と云いますね。とはいえ、例会で友人と仲良く競い、共に歳を重ねていくのは楽しい。私も赤坂支部で42年目。殆ど人生と一緒です。互いに礼儀正しく、丁寧な言葉で接していれば、釣り会ほど楽しいものはありません。簡単にイヤと言ってしまうのは…あまりにモッタイナイ。一方、バサーは個人が多いのでしょ。
石井 石井がバス釣りを始めてから、来てくださったお客の累計は4年間で5千人。
本誌 え!
石井 もちろん1回の人も常連になった人もいますが5千人。バスは新規のお客が多いのです。
本誌 そう云えば、ボートを予約できる石井のホームページは立派ですね。
石井 一人では対応できないため、ボートの電話予約は受けていません。全てネットを通じて行い、当日0時まで予約可能。
本誌 驚きました。
石井 建築の仕事でパソコンに慣れていたので、ネットを通じた予約方法を学び、基盤となるソフトを探してボート向きに改良しました。リアルタイムで予約すると枠が埋まり、満杯になれば満艇と出る。こんな舟宿は他にないでしょう。
本誌 素晴らしい!ポイントの不利を「機器の充実と顧客サービス」で補ったのですね。さて、今後の抱負は?
石井 へらもバスも三島湖にとって宝。共に大勢の釣り人が楽しんでくれることを願っています。
本誌 へら鮒釣りの維持のためにも、バス釣りの繁盛が続きますよう。なにより「ニワトリタマゴ」ではないけれど、へら鮒の放流に目を向けていただくべく、私も三島湖へ足を運ぶよう心がけます。新しい組合長としてご活躍ください。此れからも宜しくお願い申し上げます。
 
「静岡県における放流バッジの価格について」


危機感がつのる
(1971年の日研ニュースより)




全放協の発足
(1972年の日研ニュースより)





横利根川への放流(2020年)




 精進湖への放流(1973年)




  西湖への放流(1974年)
   静岡県の方から寄せられた質問にお答えします。
 まず、放流バッジを販売しているのは日研ではありません。「全日
本へら鮒放流協議会」です。
 1972年(昭和47年)の発足当時はアンチ日研の気風もあり、「他団体
の協力も得てへら鮒放流の裾野を広げる」ため、日研とは別組織とな
りました。但し現在、ボランティアとして放流にあたる人々の多くが
日研の会員でもあります。「全放協と日研との関係が分かりにくい」
との声は多く、将来的には両者の統合を目指しています。
 そして、放流バッジの販売価格は現在1,500円。昭和47年の販売開始
当時は1,000円でした。現在の物価に直すと3,000〜4,000円にあたるでし
ょう。「現在の価格は物価上昇に沿っていない」とも云えますね。放
流バッジ=放流への寄付であり、複数個を購入くださる方もいます。
 さて、へら鮒釣り人口が多い関東と異なり、へら鮒釣り人口の少な
い地域では、1個1,500円×販売個数では十分な放流量を確保できませ
ん。そのため、本来1個1,500円ではありますが、「協力をお願いす
る」形で、全放協の地区組織が独自に販売価格を上乗せしている地区
もあり…東海地区の「プラス500円」が此れにあたります。もちろん、
誰の収入にもなっていません。東海地区におけるへら鮒放流量の増加
につながっています。
 
 「国内外来種だから駆除して良い」には全く法的根拠がありません
           日研理事長・遠藤 克己、同広報部長・吉本 亜土


千葉県 横利根川




山梨県 精進湖




山梨県 西湖




新潟県 内之倉ダム




北海道 月形皆楽公園沼
   池の水を「かいぼり」するテレビ番組があります。番組の中でへら鮒は「国内外来種」と位置づけられ、駆除の対象となっています。これに対し「日研はテレビや議員に訴えるような行動を取っていない」との批判を頂き、日研ニュースや釣り雑誌で説明してきましたが、今も「何故?」との声が寄せられ…此の問題に関する皆さまの関心の深さを感じます。改めて説明させていただきます。

 まず、「国内外来種という名の生物は存在しない」「池に棲息する生物は地権者(池主)の所有物である。愛玩、食用、駆除、販売など全て地権者の自由である」。この2点を是非ご理解ください。その上で話を進めます。

 近年、山形県新庄市の最上公園の池、埼玉県上尾市の上尾丸山公園大池において、テレビ番組の撮影などを兼ねた大規模な「かいぼり」が実施されました。そして我がへら鮒は、鯉などと同様「国内外来種」として敵視され、駆除の対象となりました。へら鮒とへら鮒釣りを愛する人々の当惑は大きかった。但し、最初に記したように「へら鮒は法律で国内外来種と認定されているため駆除された」わけではありません。

 確かに国が2005年6月に施行した「特定外来生物による生態系等に係る被害の防止に関する法律」(外来生物法)では、問題を引き起こす海外起源の外来生物を「特定外来生物」として指定。その飼養、栽培、保管、運搬、輸入といった取り扱いを規制し、特定外来生物の防除などを行うことを条文化しています。しかし「国内外来種を規制する」とは一言も記されていない。環境省は特定外来生物の指定予備群として「生態系被害防止外来種リスト」を作成しており、「国内由来の外来種」も対象にはなっていますが、鯉もへら鮒(ゲンゴロウブナ)も当該リストには載っていないのです。当然、琵琶湖から全国へ放流されるアユも載っていません。では何故、テレビに出演する自称専門家が言いたい放題なのか?

 それは、その水域には地権者(池主)がいて、水域に棲息する魚類について「地権者(山形県、埼玉県の場合は市)に所有権がある」と認識されるためです。難癖つけて駆除しようが食用にしようが、遣憾ながら基本的に「所有する者の自由」と解釈されるのです。我々が救ってくれと懇願しても、他人のモノをどうすることもできません。逆に、皆さまが鯉の養魚池を持っていたとしましょう。此の池の鯉を自由に食べたり売ったり出来るのも、池主=鯉の所有者という認識があるおかげ。もし此の認識が認められなければ…鯉を眺め、時に麩も与えている近所の人が現れ「私にとって心の安らぎです。獲らないで欲しい」となりかねません。お分かりでしょうか。

 ゆえに山形県のケースでは、「最上公園へら鮒愛好会」が中心となって陳情した結果、以前から行政の許可を得てへら鮒を放流してきた側の所有権が認められ、テレビ取材のかいぼり時は一時的にヘラブナを別の場所に移し、終了後に再度許可を得て原状回復したのです。しかし、そのような事実は恣意的なテレビ番組では当然説明されません。 
 同じようなケースは九州の名釣り場・北山ダムにおいても起こりました。ダムゲートの補修および湖岸の補強工事に伴う「ダムのかいぼり」に対応し、長年にわたる放流実績を認めた九州農政局はダム上流に「へら鮒避難池」を造り、へら鮒を保護してくれたのです。これに対し埼玉県の例では、遺憾ながら我々も協力した署名運動の甲斐もなく、へら鮒は駆除されてしまいました。しかし、此れは「国内外来種だから」ではありません。池主である市の方針のため、また放流実績も認められなかったため、我々は引き下がるしか術がなかったのです。

 ご理解いただけたでしょうか。そして「放流は不安定な土台の上に成り立っている」と気づかれたと思います。此れまでへら鮒が護られたのは「放流実績が認められたから」。逆に「放流を認めれば、何かあった時、ギャーギャー言われて工事が進まないかもしれない。ならば放流など認めない方が良いかもしれない」となる危険もあるのです。そのため、へら鮒を護った人々は当局と細心の注意を払って交渉にあたりました。これからも地域の観光および経済の振興にも役立つ放流が続けられるよう、私たちは池や川の管理者との関係を密に保たなくてはなりません。

 これらの活動で我々日研が頼りにしている組織は、「公益財団法人 日本釣振興会」(通称・日釣振)です。同会とは、ブラックバス問題で利害が一致しなかった時期もありましたが、現在は国内外来種問題などで歩調を合わせて活動を展開しています。日釣振は国会議員などで構成される「釣魚議員連盟」とも関係が深く、社会的な影響力も充分です。皆さまも日研や日釣振の会員に登録し、社会的活動に積極的にご参加ください。宜しくお願い申し上げます。

 
シリーズ「この人に聞く」第85回 中島屋 斉藤 輝雄 氏


中島屋主人 斉藤 輝雄 氏




昭和20年代、横利根川と繋がっ
ていた「川脇の内川」で釣る
土肥 伸




舟の並ぶ横利根川
(へら鮒 昭和43年11月号)




早春の横利根川
日研機関紙「はねうき」
昭和47年
   昭和25年の創立以来、日研と横利根の関係は極めて深いものがあります。なにより昭和18年、土肥伸が大阪から横利根の川脇へ移住したことが、関東におけるへら鮒釣り発展の基礎となりました。釣舟組合の組合長を務める斉藤輝雄氏にお話を伺います。

本誌 大会で例会で、お世話になっています。ありがとうございます。まず、お生まれをお聞かせください。
斉藤 昭和21年11月9日。佐原生まれの佐原育ちです。
本誌 初めての魚釣りは?
斉藤 子供の頃、藪の篠竹を切った竿にミミズをつけてのマブナ釣り。釣り場は近所の水路でした。
本誌 「水郷」という言葉どおり、当時は水路が沢山あったのですか?
斉藤 あったどころか、当時は水路が道路。今は中島屋の中華料理店になっている場所からバイパスを越えて、我が家の田圃の方まで水路が伸びてました。
本誌 此の辺りも、水郷のイメージどおりの景色だったのですね。
斉藤 そうです。道は精々自転車が通れる程度で…田圃に行くのは水路、収穫した米を運ぶのも水路。中島屋の前には現在の県道が走っていたけれど、当時は砂利や石ころだらけの道でした。あの幅広のバイパスが出来たのは耕地整理が終わった後、昭和50年代半ばです。
本誌 中島屋(茨城県)の、横利根を挟んだ対岸(千葉県)もですか?
斉藤 もちろん。中島屋対岸のポイント「荒河吐き出し」は、埋め立てられた荒河川の跡。此の水路を通って、中島屋から丸江湖や与田浦へ往復していたのです。
本誌 昔は船頭さんが案内したと聞きます。
斉藤 農閑期になると、近所の30人ほどが舟と共に中島屋に手伝いにきました。釣り客1〜2人を乗せ、寒い時期なので炬燵も舟に積み、水棹を操って連れて行く。昭和20年代は竿2〜3本並べてのマブナ釣りが主流でした。 
本誌 日研誕生が昭和25年。へら鮒釣りは始まったばかりですね。となると、斉藤さんは土肥伸や小林隆夫は覚えておられない。
斉藤 残念ながら記憶にありません。日研で云えば、米地南嶺さんや山口幸司郎さんからです。
本誌 釣り人を乗せた舟は、元々農業用の舟なのですね。当時の写真を見ると、牛まで運んでいます。
斉藤 そう、米俵なら14〜15俵は載る舟。私も父を手伝い、中島屋の本家から借りた牛と一緒に舟で田圃へ通ってた。当時、ワラを切って牛にエサをやるのは子どもの仕事。本家は軍馬のエサになる秣(まぐさ)も作っていて、此処から利根川経由で東京へ送ってました。 
本誌 斉藤さんは子どもの頃から水棹が使えたのですか?
斉藤 もちろん。今でもやれば出来ますよ。
本誌 中島屋が旅館を始めたのは何時頃ですか?
斉藤 当時、東京からの日帰りは無理。小学生の頃、既に旅館業の許可を取って釣り客を泊めていた。丁度、東京から竜ケ崎、新利根川、上の島新川経由で来る釣りバスの終点が中島屋で…繁盛しました。
本誌 では、当時から沢山の舟を持っていた。
斉藤 いや、子どもの頃、中島屋として持っていた舟は10杯もありません。先ほど話したように、近所の人が舟と共に船頭としてやってくる。空いてる舟だけ借りることもありました。当時は今のような簡単なカッパギ(角棒の両端に板を付けた、舟の推進具)はなく、釣り人が自分で水棹を操る。船頭つきも船頭なしも、舟は近所から借りてくる方が多かったです。
本誌 「昔の人は先ず櫓と水棹の扱いを学んだ」と聞きますね。ところで、中島屋は「ダンゴ屋」とも呼ばれますが、斉藤さんにとってダンゴの記憶は?
斉藤 実はダンゴを売っていた記憶はありません。食堂の左奥、玄関のある場所(大会の度、企画部が検量カードを集計する場所)でダンゴを焼いていたようですが、私が小学校の頃にはやめてました。
本誌 ところで、フィクサーとして知られ、釣りも好きだった児玉誉士夫の随想「生ぐさ太公望」に中島屋が出てきます。夕食にナマズ鍋が供され、珍しく釣り客ならぬアベックが泊まり合わせて家が揺れ…翌朝「ナマズなど食うから地震が起きただべ」というオチなのですが、ナマズ鍋は覚えておられますか?
斉藤 覚えています。ナマズの肉、焼いたナマズの皮、鶏の挽肉の団子と野菜を味噌で煮込んだ鍋。
本誌 当時は七輪ですか?
斉藤 そうです。
本誌 風情ありますね。
斉藤 けれど、鍋より蒲焼きの方が多かった。ウナギは当時も高かったので、ナマズなんです。川魚屋から仕入れ、食堂から真っすぐ川へ出て左10mの所にあった生簀に泳がせてました。
本誌 河畔の宿でナマズ。いいですね。ところで昭和40年代、横利根は大人気で…寒べらのシーズン、すなわち真冬でも夜中の12時前に出舟しちゃったと聞きます。大変だったでしょう。
斉藤 例会のバスが着くと、貸し出しの豆炭アンカと毛布を積み、ポイント確保のため次々出舟。
本誌 今ほど防寒着も発達していない時代、アンカと毛布で夜明けを待つ。しかも当時は「横利根が凍った」と聞きます。昔の人はエラカッタと云う他ありません。事故は起こらなかったのですか?
斉藤 落ちた人は結構います。けれど幸い「水に落ちて水死」という記憶は今に至るまでない。船から上がった後の脳梗塞や心筋梗塞はありますが…。
本誌 此れを言うと皆から怒られるんですけど、私「死んで落ちる人はいても、落ちて死ぬ人はいない」と思ってる。但し、水から上がれずに死ぬリスクは極めて高い。何年か前の団体ベストファイブ戦で中島屋対岸に舟をとめ、魚に持っていかれた竿を追いかけて前から落ち、駆け付けた斉藤さんに助けていただきました。
斉藤 よく覚えています。
本誌 あの時、9月初めの軽装だったけれど、コンクリ護岸へ全く上がれなかった。斉藤さんにようやく引っ張り上げていただいた。崖に両手を掛けて身体を持ち上げるなんて…映画の世界です。
斉藤 そう、あの高さがあると護岸は上がれません。
本誌 ボートだって、水中から船べりに手を掛けて上がるのは難しいでしょう。だからこそ、助けてもらうまでの時間稼ぎとしてライフジャケットは絶対必要。私、声は枯れちゃうので、必ず呼子(ホイッスル)を持ってます。映画「タイタニック」の女の子も最後、呼子のおかげで助かったでしょ。
斉藤 ダウンジャケットも、空気が入ってるから暫くは浮いてると思うけど。
本誌 やがて水が浸みたら、余計に重くなるでしょう。いよいよ上がれない。横利根なら誰かが助けてくれる可能性が高いけど、寒い時期、三島湖や豊英湖などの奥、誰もいない場所で釣るのは危険だと思います。さて、昭和40年代の混雑…源義経の八艘飛びみたいに、水上を舟から舟へ移動できそうな写真が有名ですが、中島屋は如何でしたか?
斉藤 日曜日など、近所のおばさん2人に手伝ってもらい、朝ご飯と昼の弁当用に、お米を2斗(36リットル、約30キロ)炊いてました。夜中に着いた釣りバスから降りた人が朝ご飯を食べ、昼の弁当を持って出舟していく。寝るヒマなどありません。殆ど徹夜でした。
本誌 2斗ですか!オカズは?
斉藤 朝ごはんは海苔、玉子、納豆、お新香に味噌汁。今と同じですね。昼の弁当は、持ちが良いので塩ジャケ。
本誌 商売繁盛とはいえ大変でしたね。出舟時間が決まったのは何時頃ですか?
斉藤 昭和40年代の後半じゃないかと思います。
本誌 当時、中島屋の舟の数は?
斉藤 自前の舟が100杯ちょっと。冬場は与田浦のはなわから30杯借りてきて130杯。逆に春先は与田浦が忙しくなるので、中島屋からはなわに舟を貸していました。
本誌 はなわ。関べらの和田敬造会長が応援した舟宿ですね。ところで当時、横利根全体で舟宿は幾つあったのですか?
斉藤 下流から平野、中島屋、小松屋、寺島、利根食堂、堀井、黒田、西代のT字路のところに根本、西代屋(へら鮒社の創業者、根本良一氏の実家)、水郷館、高橋、サトー、一竿、柳町。
本誌 二七屋とあづまは?
斉藤 2軒は其の後に生まれました。他に小松屋の対岸に、組合には入ってないけれど舟を貸していた岩井があった。中島屋以外は左程の舟数ではなかったため、全体では500杯程だったでしょう。
本誌 現在の4倍ですね。宿泊は?
斉藤 旅館業の許可を取っていたのは中島屋と小松屋。但し、部屋がある所は懇意にしている釣客を民宿のように泊めていた。近所の農家も泊めてました。
本誌 貸舟と宿泊、大賑わいだったことが分かります。それが今…秋季大会翌日の11月9日(月)、小松屋から出舟して小松屋上流の最初の鉄ピン、すなわち前日の優勝ポイントを目指したら、釣客は私一人。他に中島屋から関べらの人が出ていて、合わせて二人。平日とはいえ、放流日翌々日で浮子は動きっぱなし。楽しい釣りが出来ることが分かっているのに二人。胸が痛みます。
斉藤 そう、平日は誰も来ない日もある。
本誌 水棹が苦手という人が増えているのでしょうか?後ろに綺麗にハの字にとめるのは無理でも、地底の軟らかい舟の前に刺せば、私でもなんとかなるのに…。それでいて、陸釣は賑わっている。
斉藤 陸釣の人たちは舟に乗りません。
本誌 そう、大会や例会でお世話になっているので、横利根へ行ったら「舟に乗る」のがマナーだと思ってます。
斉藤 ありがとうございます。確かに、舟宿が交代で陸釣の人から放流協賛金300円を集めているけど、日研の人は見かけない。「この人ウチから出たことある」という人も見かけない。舟と陸では世界が違うような気がする。
本誌 気を遣ってるのは私一人じゃないんだ。
斉藤 護岸が出来てからへら鮒釣りを始めた。そんな人も多いような気がします。毎日来る人も珍しくありません。
本誌 なるほど。年金生活の楽しみに「横利根で陸釣」の人も多いのですね。そうなると、2千円の舟代でも確かに負担を感じるでしょう。とはいえ、中には支払いに抵抗する人もいて…大変と伺っています。
斉藤 国交省に「川の鉄ピンを抜くべし、ロープを外すべし」と訴える方もいます。
本誌 あれは何のためなのですか?
斉藤 「此処から沖へ舟をとめないでください」の目安です。
本誌 私、鉄ピンは水棹の補助、ロープは陸釣除けと思ってました。
斉藤 そうではありません。昔は土砂を運ぶ船や台船が多く、乱暴な運転をするケースも見られ、沖へ舟をとめると危険だった。そのため、国交省に届けたうえで、舟宿が自費で鉄ピンとロープを整備したのです。
本誌 初めて知りました。危険防止だったのですか!
斉藤 緩んでいる箇所もあるため、陸釣除けと思われたかもしれません。中島屋周辺はロープが緩む度に私が張り直し、ロープづけで舟がとまるようにしていました。
本誌 一日遊んで300円。放流資金になるのだし、気持よく払った方が楽しいと思うけど…。
斉藤 そういう人ばかりだと良いのですが…。漁業権がないため、あくまで協力金。強制力はありません。
本誌 その300円。釣れる横利根の元「仕切り網」にも使われるのでしょう。
斉藤 そのとおり。但し、組合として仕切り網の維持が難しくなり、来年5月で撤去となります。
本誌 仕切り網には感謝しています。出来る前と出来た後、釣果は明らかに違う。どのような経緯で生まれたのですか?
斉藤 「折角放流したへら鮒が逃げ出しては、横利根が釣れなくなる。それでは舟宿の生活が成り立たない。よって仕切り網で魚の逃走を防ぎたい」と…昭和60年頃でしょうか、衆議院や県議会の先生方を通じてお願いしたのです。
本誌 よく認められましたね!
斉藤 「生活のため」が大きかったのでしょう。最初は放流の11月から3月いっぱいまで。後に通年。潮来にある国交省の工事事務所から臨時の認可となっていて…3カ月に一度、平野さんが更新に行ってくれてます。
本誌 仕切り網、効果ありましたね。
斉藤 張る前は、冬になると魚が第二大曲の深場へ集結していた。
本誌 場所の取り合いが激しく、好ポイントの目印のゴミ箱を「勝手に動かした」という話を聞いたこともあります。
斉藤 その集結を避けるため、深場の手前に仕切り網を張ったのです。
本誌 臨時の許可を更新となると…5月に撤去されたら、二度と張れませんね。
斉藤 残念ながら其のとおり。とはいえ、5月に高橋三男さんが亡くなって舟宿あづまが廃業し、残ったのは平野、中島屋、小松屋、堀井の4軒。高橋さんが亡くなるまで、日曜日はお客が来るので組合でアルバイト(一日5千円で釣り好きの人が協力。仕切り網の近くで陸釣する傍ら、船が来ると仕切り網を上げる)を頼み、残り月曜〜土曜の6日間を5軒の舟宿で回していました。けれど、あづまが廃業した現在「6日間を4軒」では回しきれないのです。といって、一日5千円でアルバイトを頼むのは資金的に難しい。撤去以外に道はありませんでした。
本誌 舟宿が沢山あり、横利根が500杯の舟で賑わっていた頃より、現在の方が「数も型も釣れている」のに…残念でなりません。仕切り網撤去となると、陸釣から頂く放流協力金がドウナルカも心配です。とはいえ、仕切り網協力金ではありませんでした。放流に充てられるのだから、仕切り網が撤去されても「放流に協力をお願いします」と徴収可能なのではありませんか?
斉藤 舟宿組合で話し合っているところです。確かに今後が心配。但し、昔と違う点があります。
本誌 それは?
斉藤 護岸の下にテトラが入っていること。昔はオダが所々ある程度で、魚の付き場がなかった。そのため、春先になると北利根や霞ケ浦へ出ていった。今はテトラがあるため「全部が全部行かないのでは」と期待しています。
本誌 カサゴ釣りみたいですね。私もテトラの威力に期待したいと思います。ところで、横利根の舟宿は現在4軒。後継者も含めて今後が心配でならない。なにより、舟宿だけでは生活が成り立たないのではありませんか?
斉藤 そのとおりです。今の時代、舟宿だけでは生活が難しいため廃業となる。中島屋でも50杯の舟が出払うことは、ここ何年ありません。例会の入る日曜日でも20〜30人。8月から放流前の釣れない時期は、例会も殆ど組まれない。吉本さんが経験されたように、放流の翌々日でも一人ですから、平日はゼロが珍しくない。もちろん、風や雨だと例会以外は来ない。
本誌 私はよく「例会じゃなきゃ行かない日」という言葉を使いますが、舟宿にとって天気は重大事です。
斉藤 舟宿だけでの生活は難しい。中島屋も中華料理店があるから、今はコロナで大変だけど、なんとか持っている。現状「年金プラス舟宿」の隠居商売でないと無理でしょう。
本誌 日研は此れまで舟宿にお世話になってきました。理事長の遠藤も「舟宿を守る責任がある」と言っている。なにより、横利根の舟数は現在120杯ほど。これ以上舟宿がなくなったら…農水杯はじめ日研の行事が難しくなるのです。
斉藤 後継者が居るか居ないかも大きい。水郷館もあれだけ曳舟で行くのだから、今やってれば「一番良かったのでは」と思うけど、後継者の問題から廃業してしまわれました。
本誌 残念でなりません。他の舟宿も心配ですね。そもそも、一日大人が遊んで「舟代2千円」が安過ぎませんか?物価や給料の上昇に沿っていれば、3千円でもおかしくないように思われます。
斉藤 そう仰っていただくのは嬉しく有難い。けれど、此処から近い、旭市が運営する長熊釣り堀センターは一日1千円、北浦渚が平日1千円・土日祝1.5千円。3千円にしたら誰も来ないでしょう。
本誌 確かに東京から横利根まで100キロ。首都高、京葉道路、東関東道、ガソリン代だけで往復7〜8千円掛かる。横利根がコスト的に辛い位置にあるのは確かで…私は靖国通り→水戸街道→利根川沿いの下道を使うことも多い。竿や浮子の釣り道具、交通費に比べて「舟代が安すぎる」と思います。しかし、此のアンバランスを果たして是正できるのか?悩みが深いです。
斉藤 東京からだと、西湖・精進湖と同じ距離ですね。
本誌 なにより舟を貸すだけでなく、放流を含めた釣り場保全のため、舟宿は頑張ってくださってる。私が日研に入った40年前、先輩に「横利根で3枚釣れれば一人前」と言われた。当時を思うと「夢のような釣果」は、ただただ放流のおかげです。
斉藤 昭和40年代の後半から放流が盛んになりました。
本誌 全放協の誕生が昭和47年です。ところで、横利根は漁業権がありません。放流の申請とか許可とかはあるのですか?
斉藤 昭和40年代でしたか、香取の漁業組合が横利根に漁業権を設置しようと試み、舟宿組合が県会議員を通じて反対運動を展開。日研も猛反対して潰れました。そのため、漁業権のある新利根川は放流の度に漁業組合に連絡していますが、横利根については許可も申請も連絡も取ったことがありません。
本誌 なるほど。事実上、舟宿が横利根をお世話しているのですね。日研は「横利根と共に歩んできた」と思います。すなわち「横利根の舟宿と共に歩んできた」と言えます。お話を伺って感謝と共に心配ばかりが湧いてきました。おそらく、横利根だけでなく、多くの舟宿に共通した課題でしょう。へら鮒釣り存続のため、舟宿は欠かせません。何時もなら「益々ご活躍ください」と締めるのですが、舟宿存続のため日研は如何すれば良いのか?今回はちょっと気が重いです。
 
傷害保険加入のお知らせ
 日研本部では、今年度から中央の部の本部主催の釣りイベントに当日限りの傷害保険に加入することとなりました。
 対象期間はイベント当日の午前0時から午後12時までの24時間で、ドアtoドアの釣行中の傷害のみ対象となります。
 対象者全員の氏名を後日、保険会社に届けなければならないため、早上がりをする場合は必ず検量カードに氏名を記載して、日研本部に提出してください。
死亡:50万円、入院日額:2,000円、通院日額:1,000円、手術入院時:20,000円、手術外来時:10,000円
連絡先:損害保険ジャパン日本興和株式会社 代理店 中澤 岳(090-3533-4086)
 
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